第6話 起こさないでください
和裁教室の帰りに、少し足を伸ばして市場に寄って、新しく生ける花を買った。
家事が苦手で外向きの当主夫人に変わって、本家を切り盛りする佐代子は、屋敷を飾る花を切らしたことが無い。
志堂の本家がある辺りの敷地はほぼ全て一族所有の土地なので、ほんの数分歩けば親戚の家に辿り着く。
そんな環境なので、当主夫妻の不在時でも構わず顔を見せる親族は多い。
懇意にしている古くからの得意先の家族が近くに来たから、と立ち寄る事もあるし、当主夫人が、地域の経営者夫人を招いて茶会をする事もしょっちゅうだ。
だから、玄関と床の間にはいつも綺麗な花を活けるようにしている。
志堂本家に相応しい、正統派の生け花だ。
そんな彼女が今日は珍しく可愛らしいガーベラを数種類買って帰った。
これは、玄関や、来客を通す和室にある床の間に飾る為ではない。
ごくごく身近なお客様と一緒に愉しむ為の花だ。
もう我が家同然となった本家の裏口に回って、勝手口から中に入る。
と、薄暗い台所の食卓に顔を伏せるようにして眠っている幸を見つけた。
勝手口が開いた音にも気づかない位寝入っているらしい。
ガーベラは彼女と生ける為に買ったものだった。
月に1,2度休日を利用して本家を訪れる幸の目的は、佐代子と他愛のない時間を過ごす事だ。
早くに母親を亡くした彼女が、本物の母親のように自分を慕ってくれている事が嬉しくて、佐代子も幸の来訪を心待ちにしている。
幸の亡き母を昔から見て来た佐代子としては、幸の中に彼女の面影を見つける度、嬉しくて、少し切なくなる。
彼女が生きていたら、と思わずにはいられないからだ。
今日は3時過ぎに来ると聞いていたが、予定より早く来てくれたらしい。
本家の用事で佐代子が出かけていても、幸が来る日に一鷹が家を空ける訳がないので問題ない。
きちんと彼女を出迎えてくれると分かっている。
一鷹が日に日に幸への思いを募らせていることも、分かっていた。
だから、一鷹がここにいないのはおかしい。
どういう状況で幸が寝入ってしまったのかは分からないが、普段の彼女ならまず有り得ない。
気さくに接してはいても、そこまで本家に気を許してはいないはずだ。
物音を立てないように荷物を置いて台所を出ると、足音を殺して階段を降りて来る一鷹と出くわした。
古びた本家の木の階段は、慣れているものでもギシギシと音を立ててしまうのだ。
「佐代子さん・・帰ってたんですか」
「たったいま戻りました。幸さん、来られてたんですね」
「買い物が早く終わったからって30分程前に。
俺が部屋に本を取りに戻っている間に寝ちゃったみたいで」
「ああ、それで・・・上着を?」
「本当は横になったほうが楽なんだろうけど・・・あんまり気持ちよさそうに寝てるから、起こすのも可哀想で」
一鷹が手にしているのは彼が家で過ごす時に羽織っている毛糸のカーディガンだ。
窓を締めているとはいえ、古びた屋敷は隙間風が酷い。
気を遣ったのだろう。
足音を立てない様に階段を上り下りする一鷹の姿を想像して、思わず笑みが零れた。
きっと、本当のところは幸の隣に座って彼女の寝顔を見ていたかっただろうに。
幸が気さくに親戚の子を呼ぶように”イチ君”と呼びかけた時から、一鷹のなかで幸はもう特別な存在になっていた。
従姉弟、として穏やかに接する幸の距離感に、嬉しさを覚えながらももどかしい気持ちが隠しきれない一鷹の様子を、佐代子は側でずっと見て来た。
志堂本家と、会社の事を考えると、一鷹の結婚相手は取引先の令嬢、もしくは一族の娘が望ましい。
血筋を重んじる古い旧家は、昔から親族婚を繰り返してきた。
華族制度が廃止され、志堂の血に拘る必要がなくなった今もその色は濃く残っている。
血筋から言えば幸は申し分ない志堂の娘だ。
けれど、彼女の母親と志堂の家には浅からぬ因縁がある。
幸と幸の父親の中にも、母親の生家に対するあまりよくない感情が根付いている事は知っていた。
志堂の現当主は、一鷹の気持ちを何となく知ってはいながらも、息子の婚約者候補に幸の名前を含めてはいない。
上手く行く筈がないと見透かしているようだった。
だからこそ、一鷹の柔らかな恋を少しでも応援してやりたいと思うのだ。
佐代子は声を潜めて笑うと、背中を押すように一鷹に告げた。
「カーディガンかけてあげて下さいね。私は居間におりますので。
声を掛ける必要はありませんよ。幸さんが起きたら、一鷹さんも一緒にお茶にしましょう。
せっかく亮誠さんにお願いしてケーキを届けて貰ったんですから、お茶会にも参加してくださいね」
幸は佐代子を訪ねたのだからと気を遣うのを先回りしてしまうと、一鷹が困ったように微笑んだ。
”見守っていてあげて下さいね”
佐代子の台詞が、一鷹の耳にはそう聞こえた。
明かりを落としたままの台所に戻ると、幸はまださっきと同じ姿勢のまま、腕を枕に眠っていた。
卒業論文の準備で忙しいと、前に来た時佐代子に話していたから、あまり眠れていないのかもしれない。
中学受験をして、エスカレーターの私立に入学した一鷹にとって進路は悩むものではなかったし、卒業論文と言われてもあまりピンと来ない。
けれど、この1、2年で幸の世界が広がった事だけは嫌になるほど分かっていた。
生き生きとした様子で大学生活について語る幸はいつでも楽しそうだったから。
全く手の届かない世界にいる人だ。
眠っている幸の背中に、そっと広げたカーディガンを着せ掛ける。
この場所以外にも、俺の知らないどこかに、彼女が安堵して眠りにつける場所があるんだろうか?
例えば、誰かの隣、とか。
女子高育ちの彼女でも、大学生となればそういう出会いはいくらでもあるだろう。
幸の持つ独特の雰囲気は人を心地よくさせるから、最初のハードルさえ超えてしまえば近づくのは容易い。
積極的な方ではないが、打ち解けた人間には気さくに接するし、面倒見も良い。
選ぼうと思えばいくらだって彼女には選択肢がある。
何も年下で煩わしい旧家付きの俺を選ばなくても・・・
自信なんて最初からない。
そもそも幸は彼女の土俵に一鷹を上げてさえいないのだ。
”イチ君は、いいこ”
彼女が評価する従弟しての価値はせいぜいその程度だろう。
出会った時から伸ばしたままの綺麗な黒髪が頬のあたりで揺れている。
おっとりしているように見えて、きちんと警戒心を持っている人だし、誰にでも心を許したりはしない。
彼女が穏やかに寝息を立てているのは、この空間は完全に安全だと知っているからだ。
誰も自分を傷つけないと頭と心で理解しているからだ。
幸が選んでくれた場所が、自分の領域である事が、ただただ嬉しい。
それだけで十分な筈なのに。
ほんの少し手を伸ばせば触れてしまえる距離にいると、彼女が目を閉じているのをいい事に、色んな柵を一気に飛び越えてしまいたくなる。
幸さんが、従弟じゃない人間に見せる顔を、俺は知らない。
他の人間にはどんな風に笑いかけるの?
幸さんは、誰と一緒にいたいの?
次々に浮かぶ疑問を投げつけたくて、でも、訊きたくなくて、身動きが取れなくなる。
頬を覆う黒髪に伸ばした手を引っ込めて、食卓を支えにしてしゃがみ込む。
そもそも女子の寝顔って、そんな見て良いものじゃないはずだし・・
逸らさなきゃ、と思うのに、視線は一向に幸から離れてくれない。
食い入るように、記憶に刻み付けるように、瞬きの隙間に彼女の寝顔を映す。
滑らかな肌、柔らかい唇、触れて確かめたくて堪らない。
「俺が狼だったらどうするんですか・・・?」
無防備なところ見せたりしたら、付け込んじゃいますよ。
”あたしの知ってるイチ君は、そんなことしないわ”
彼女が口にするであろう答えなんて、容易に想像できる。
有難い事に、幸が自分に寄せる信頼は絶大だ。
何があっても紳士でいると信じ切っている。
だから、一鷹はこうして幸のそばに居られる。
この心地よい空間を切り裂いてまで、幸に踏み込む勇気も覚悟も、一鷹にはない。
何もかもが足りない、未熟なばかりの自分では、幸の真正面に立つことさえ出来ない。
触れてはいけない、いまはまだ。
ほんとうに・・?
食卓に広がる長い黒髪を指で掬う。
身を屈めて巻き付けた髪に唇を寄せた。
ふわりと広がるシャンプーの柔らかい香り。
部屋の空気を纏って冷たくなった黒髪が、これが現実だと示している。
「・・・っ」
胸が苦しい。
抱きしめられない虚無感と、指に触れた髪の感触が絡みついて離れない。
幸さん、目を開けて。
幸さん、目を開けないで。
どっちつかずの感情がぐるぐると胸を渦巻いている。
思っていたよりも重症だ。
一鷹は口元を手で覆って天井を仰いだ。
薄暗い台所に響く自分の鼓動が、否応なしに思考を追いつめていく。
”誰かを好きになると、どうしようもないくらい苦しくなることがあるよ”
恋愛に関しては一鷹の数歩先を行く亮誠の言葉が蘇る。
あれは嘘じゃなかった。
呼吸も出来なくなる位、胸が苦しい。
言ったって意味がない。
これじゃあ何も伝わらないままだ。
それでも、口に出さずにはいられない。
自分の気持ちを確かめるために。
視線を戻した先には、一鷹が漕がれてやまない女性がいる。
「・・・幸さん・・・俺は、幸さんのことが、ずっと好きだよ」
静かな告白は、一鷹の耳だけ残った。
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