第70話 神原浄の最期

 赤い女が神原浄に、ヘドロ状の霊体となった窪田シゲオの逃げた方向を指し示した。その顔は晴々としており、ドレスは赤くなく、辺りと場違いな気がした。

 かつてサカガミに殺された女活動家。

 サカガミの息の根が止まったことで、満たされるものを得たのだろうか。赤い女にはずいぶん助けてもらったが、いまは礼を言うヒマがない。

 神原は、社員のひとりが停車しようとしていたバイクを奪った。


「待て、窪田!」

 人間か霊なのか分からぬ得体の知れないものになった窪田は、浄水場を越えて土手を登った。背丈ほどもある草むらをかき分け、川辺に出た。

 霧に包まれた川面を、窪田は走り抜けていく。この世に実在するのかなかば不透明ゆえに、半ば当然なのかも知れないが、神原には波紋も残さずに水面を行く男の姿に異様さを感じた。

 バイクに乗った神原のスピードより、ずっと早い。

 その時、窪田の進む方向に鉢合わせするように、水上バイクに乗った若者が現れた。地震で街がしっちゃかめっちゃかになっているときでも、優雅に遊ぶバカはいるものだ。水上バイクは水面を浮かぶ半透明の存在に気づかなかったが、窪田はわずらわしいといった感じでぶつかると、若者を水面にはじき飛ばした。

 何が起こったかまるで分からないまま、若者は水柱のなかで回転し、硬くなった水面に全身をぶつけた。猛スピードでぶつかると、水面はコンクリートと同じ硬さになる。

 何本か骨を折ったらしい。

 意識を失った若者は、そのまま沈んでいく。

 動くヘドロ、半霊体……いろいろ呼び名はあるだろうが、神原は窪田が無造作に人を傷つける様を見て、かれが悪霊になったと思うことにした。その呼び名に相応しく、窪田の体は少しずつ黒ずんでいくように見えた。

 もはや窪田はバイクでは追いつけない。

 神原はオートバイを降りて、窪田にはじかれた若者を助けようと川面に入ったが、その姿が見えない。

 沈んでしまったのか?

 流されてしまったのか?

 窪田はそのまま進んでいく。腰まで川に浸かった時点で、水面を歩く霊に追いつけないと悟ると、神原は傾いたまま同じ場所をぐるぐる回っている水上バイクに向かった。

 神原はハンドルを掴むと、バイクの体勢を立て直し、シートの上にまたがった。そうすることで、川の中央に流されつつある若者の姿が見えた。水上バイクに乗ったことはなかったが、何とか操縦して若者に追いつこうとした。そばまで近づくと、コートを脱いで飛び込んだ。

 泥水の海を昨日から泳いできたのだ。河川など屁ではない。

 だが、その冷たさには文字通り身が凍った。額から血が吹き出た。胸に突き刺さっていた鉄骨から血が流れ出ていく。意識がその血に従うように薄まるのを感じる……。一瞬、このまま沈んでしまいたい誘惑にかられた。

「おい、大丈夫か。しっかりしろっ」

 神原は若者を片手に抱えたまま、水をかきむしって泳いだ。必死で水上バイクに辿り着き、苦労して若者を乗せた。改めてエンジンに点火した。若者を後部に乗せたまま、どうにか向こう岸にたどり着いた。遠くで異変に気づいた若者の仲間が近づいてくるのが分かった。

「おーい、力を……」

 貸してくれ、神原はそう言おうとした。

 ……が、最期まで言い切ることは出来なかった。

 神原の視野が傾いた。いや、傾いているのは、自分の体だ。

 直接、泥のなかに顔を埋めるかたちで、その場に倒れてしまった。手足に感覚がなく、起き上がれない。

 神原は自らの異変に気づいた。野犬の遠吠えを聞いた頃からずっと感じていた痺れ……今まで、ずっと感じていた手の痺れが止まっていた。突然、川の水が冷たくなくなった。顔面を地面に強打した痛みもない。胸の痛みも、額の痛みもない。

 血の流れも感じず、心臓の鼓動も感じない。

 全身のすべての痛みが消えた。

 何もかもを感じなくなった。

「……タイムオーバーか」

 それが神原の最期の言葉となった。

 神原は力尽きた。

 ついに神原浄の体は温かみを失った。水口老人に「死にかけている」と言われてからずいぶん気を揉んだが、ついに肉体は限界を迎えて死に至ったようだった。

 神原の心に灯っていた炎がふっと消えた。

 体からすうっと意識が離れるのを感じた。いきなり自分の体を見下ろすことになった。泥まみれの血だらけで、ぼろぼろの中年男が川原に倒れている。青ざめた顔に血色は無く、ぴくりとも動かない。心臓は静かに止まったようだ。

 あれが、おれか。

 ずいぶん、鏡で見るのとは印象が違うな。もっとこぎれいな格好で……まぁ、いい。死に装束は誰も選べない。

 神原浄は、自身が死んだことを悟った。

 残念に思ったが、不思議と後悔はなかった。涙もない。

 こんな最期だとは予想しなかった。名も知らぬ若者が溺れるのを助けようとして命を失ったのだ。ずいぶん、あっけない感じだが、のたれ死によりはいい。

 まあ、そんなものかも知れないな……と神原は思った。

 最期に、刑事らしい上出来なことをした気がした。

 パニックに襲われることはなかった。心は落ち着いており、それが半ば当然のことだったように受け入れると、まるで衣服を脱ぎ捨てるように、神原はその場から抜け出した。

 魂だけの――意識だけの存在になった。

 体が軽くなり、思う通りの方向へ進んでいける。神原は霊となった自分を改めた。全身が心なしか空気のようにふわふわしており、指先はおろか皮膚の感覚がない。まるで今までのことは、魂が肉体を衣服のように着ていたように感じた。

 相変わらず、ボロボロの服を着ている。

 人は死んだときの格好のまま霊となると聞いたが、本当だったのか。

 死んだことによって、新たな感覚を学ぶのが不思議な感じだ。他人から見るとどうなのだろう。やはり見えないのか、光のように見えるのか。

 ……ともあれ、最後の一仕事を終えよう。

 霊となった神原は、窪田を追った。

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