第55話 山登りの鉄則

 佐々木豊の顔には疲労が見えた。顔は暗いなかでも生気なく見えた。今朝出会った頃から、半日しか経っていないのに、げっそりとした死体のように見える。窪田シゲオと並んで見分けがつくだろうか。体は小刻みに震えており、全身の毛が神経質に逆立っている。

 弱っているのだ。

 神原はそんな友人を見て、哀れに思った。

「プランBはあるの?」葉月道子が言った。「プランAは失敗よね? 不意打ち食らわすつもりが、なかば鉢合わせ同然に身を隠しただけだから」

「そんなものないよ。見つからないようにして、不意打ちを食らわす。どっちかがくたばるまで、プランAを繰り返す。それだけさ」

「最悪!」葉月が大袈裟に、どうにでもしてよというジェスチャーをした。

 トンネルは次第に狭くなり天井が迫ってきたが、すぐに新たな迷宮が現れ、三人を奥へ導いた。

「どうして、そっちへ行くんだ?」佐々木が言った。

「古い道だ。おれには分かる」

 佐々木は黙って神原について来た。意見を言うには、疲労が溜まっているのだ。

枝道があっても、神原は迷わなかった。神原の目には、ずっと昔の人間が組み重ねた木枠の道が薄く重なっていた。霊として残る古代の坑道が、洞窟の風景と溶け込んでいるのだ。神原は古い道を選んだ。

「うっ!」

 懐中電灯で先を照らしていたら、いきなり神原の目の前に女が現れた。ライトは女を透過し、そのときの赤い色が際立った。

 浄水場にいたはずの赤い女だ。

 神原はかろうじて悲鳴を押し殺した。暗闇に音もなく現れた様子には、さすがに肝を冷やした。暗闇でも女を包むドレスが赤く濡れているのが分かる。

 なぜ、こんな処にいる?

「ど、どうした?」

「女がいる」

「女?」

「……あの浄水場にいた女だ。何かを伝えたいらしい」

「何て言ってるんだ?」

 女は、指を真下に向けていた。声は聞こえないが、ぶつぶつ言っている。顔は血まみれなので、表情が読めない。

 導いているのか、それとも他のメッセージか……。

 ちょうどそこにマンホールの蓋があった。気づかなければ通りすぎるところだった。

 行けということか?

「近道のようだ」

 神原はマンホールの蓋を開けた。地下へまっすぐ降りる穴があった。真下は光が届かぬ暗黒になっており、高さが分からない。しかし、幸いにも梯子があった。

「くそっ、こういうのは苦手だ。高所恐怖症なんだ」

「きっと、そんなに深くないと思うな」

「……だが、底が見えない」佐々木が小石を落としたが、地面との接触音まで数秒かかった。

「それでも……行くしかないな」

「あたしだって高所恐怖症なのよ。おまけに閉所恐怖症だってあるわ!」

 神原は葉月に銃を向けて、穴を降りるように言った。

「何であたしが先なのよ」

 葉月は神原を睨みつけながらも従った。

「山登りの鉄則だ。あんたが落ちても巻き添えを防げる」

「いつか、思い知らせてやる」

 葉月はぶつぶつ呟きながら、梯子を降り始めた。神原も佐々木の次に梯子に足をかけた。猟銃の負革を肩にかけ、濡れないようにした。

 だが、三人が穴の中間に差しかかったとき、頭上の蓋が動く音が響いた。

「上に、誰かいるぞ!」

 神原が気づき、梯子を戻ろうとしたときはもう遅く、金属の蓋が爆弾のような音を響かせて閉じた。神原が蓋を持ち上げようとした途端、向こう側で蝶番がはさまる音がした。

「くそっ、閉じ込められた!」

「あの窪田か?」

「分からん。見えなかった」

「暗いわ。カンベンしてよ!」トンネル内に葉月の悲鳴が轟く。

「手を離すなよ! とにかく下まで降りろ!」

 神原がそう言った途端、蓋の穴に何かが突っ込まれる音がした。神原が見上げると、その次に冷気が吹き込んできた。鼻につんとくる異臭。

「ガスだ。吸うな!」

「何だって?!」

 だが、時すでに遅く、神原は意識が薄くなるのを感じた。手が梯子から離れる。視野がすうっと暗くなり、まるで飛んでいるように思えた。虚空へまっさかさまに落ちるのを感じた。神原は佐々木にぶつかり、佐々木は葉月を下敷きにした……。

 神原はぼんやりと薄くなる意識のなかで、赤い女のことを思い出した。

(「行くな」と警告していたのだな……。)

 三人はまとめて水面に落ちた。


 どれくらいの時間が経ったか分からないが、神原は目覚めた。

 ……とはいえ、ガスの影響か、頭がズキズキとする。どうやら落ちたときにどこかにぶつかり、腰を痛めたようだった。井戸の底は浅かったらしいが、落ちたところがコンクリートじゃなかったのが幸いだった。体が動かないが、骨が折れたりはしていないようだった。

 体が動かないのは……縛られているからだ。

 暗闇のあちこちに置かれた青いライトに影がよぎる。頭痛が激しくなるのに合わせるように、神原は現実感を取り戻した。

 隣に目を向けると、佐々木と葉月の顔があった。

 両者ともうなだれており、

「大丈夫か、ふたりとも」返事はない。

 どうやら三人まとめて後手に縛られているようだった。神原が見回すと、古いレンガの壁に囲まれた天井の高い部屋だ。あちこちをコンクリートが補強している。どうやら河川の氾濫を防ぐための集水抗の一部と思われた。

 部屋には人の気配があった――窪田ではない。窪田の犠牲になったホームレスでもなさそうだ。数名の気配が、それぞれ何かの作業をしている。

 驚きだ。何で、こんな地下に人間たちがいるのか。

「おい、これは一体、何の真似だ」

 神原のことばに反応して、一人の男が近づいてきた。

 サカガミの作業着を着た見覚えのあるヒゲの男――。


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