第46話 レヴィと窪田
ずるずると音がした。あの怪物が巨体を引きずる音だった。
二人ともはっと息を飲み、そばの石柱にそっと身を寄せた。いつの間にか、あの怪物がレールの奥にいたのだ。
驚くべきことに神原浄と佐々木豊に気づいていないようだった。怪物はちょうど柱の向こうを通り過ぎようとしている。
高倉警官の姿には気づいていないようだ。神原の推理だと、やつは犬の嗅覚を持っているはずだが、全身泥まみれなことがカモフラージュになっているらしかった。
すぐそばから怪物の息遣いが聞こえた。神原と佐々木を追いかけていた頃から、興奮さめやらぬといった感じだ。血生臭いにおいと、砂利を踏みしめる音が柱から伝わってくる。
「……どうどう」
まるでその気性を落ち着かせるかのように、何者かの“声”が聞こえた。
「お、落ち着けよ。レヴィ」
かすれた男の声が、怪物に向かって発せられた。
「ななな、何をそんなにコーフンしてる?」
神原からはその姿は見えないが、一体誰が怪物に向かって話しかけているのか。その馴れ馴れしさが異様に思われた……なぜ、声の主は襲われないのか。
くちゃくちゃと音がした。男はガムを噛んでいるようだった。その粘りのあるいやらしい音が辺りに響く。
佐々木も同様に、この雰囲気に異様さを感じているようだった。まずいことに、声の主を確かめようと身を乗り出した。神原が向かい側の柱から身振りで「よせ」と伝えたが、時すでに遅く……足元の瓦礫を崩してしまった。石ころが配管に当たった。
怪物がその音に気づき、ぐるぐると喉を鳴らした。
「だ、だれだ?」
男の声が佐々木に近づいてきた。男は懐中電灯を持っており、その光がレール上を踊る。朽ちた枕木の上を歩いているらしく、ぎしぎしと鳴った。
「い、いるのか? だれか」
見つかる、と神原は思った。男が柱を回り込んで姿を現したからだ。それに従うように、怪物も首を出した。男と同調するかのように、怪物も辺りに向かって長い首を巡らす。だが、そのタイミングに合わせたかのように、神原も佐々木も石柱をぐるりと回って怪物の死角に隠れることが出来た。
命を賭けたかくれんぼだ。
「……流されたのか、こんなところまで」
男が、高倉の体を発見した。怪物が、途端に滝のようなよだれを流し始めた。鼻面で高倉の体を弄び始めた。ぬめる舌が大蛇を思わせた。
「まてまて」男が怪物を制止した。
まるでペットの犬に餌をおあずけさせるように。
怪物の体のあちこちから、まるで火山のように青白い炎が噴出した。
(まただ。また、あの光か)
それは神原にしか見えない、オーラだった。体表を包む青い蒸気が怪物の興奮とともに揺らめき、洞窟の壁に吸いこまれていくのだ。それが噴き出るたびに、怪物は苛々するように辺りに体をこすりつけた。目をこらすと、怪物の瞳が落ち着かない。肉体とは別に、不安定な魂がくっついているのをイメージさせた。
「まずいな」
怪物の逆立った毛並みを見て、男が言った。
「すとっぷすとっぷ。ここじゃダメだ」
男は高倉警官に顔を近づけ、息を確認した。
「まだ、食べさせるわけには……いかないよ、生きている間は」
レヴィと呼ばれた怪物は、ねだるように男に頬をすり寄せた。神原はその巨体に見合わぬその仕草を見て、怪物の起源がやはり犬にあるように思った。
「……だが、勿体ないハナシ。ここで腐らすのは」
男は、怪物の首筋がりがりと掻くと、「運べ」と言った。怪物は、それに従うように高倉の足にかぶりついた。だが、噛み千切るわけではなく、器用に振り回すと体を背に預けて移動し始めた。場所を変えて、餌食にするつもりだろうか。そのまま呻く高倉を乗せたまま奥に消えていった。
男はその場にしばらく残り、うろうろとしている。
やがて、柱の陰に回ると放尿を始めた。
それが終わると、男は再び電灯を照らした。くちゃくちゃとあいかわらず、何かを噛んでいる。神原は、男に近づいた。石柱の陰から忍び寄ると、後ろから男の顔を抑えた。
「だ……」
誰だと男が叫ぶ間もなく、神原は濡れたタオルで男の口をふさいだ。
怪物に感づかれてUターンされてはまずい。慎重に男を羽交い絞めにした。佐々木もそれに協力して、暴れる男の足を抱えた。数十メートル進んだところで、神原は男の懐中電灯を奪った。
「……声を出すなよ。あの怪物を呼ばれちゃ困る。怪しい動きを見せたら、岩で顔面を砕いてやるぞ。いいな?」
不承な感じを見せつつも男が頷いたので、神原は男の顔からタオルを剥いだ。顔を見ようと光線を向けた。だが、次の瞬間その顔の異様さにギョッとした。佐々木も男を見た途端、軽い悲鳴を上げて手近の鉄棒を拾って構えた。
神原には目の前のそれが一瞬、人間だとはとても思えなかった。なぜ、生きているのか分からない様相をしていた。
「お、おまえら、だれだっ。図々しいっ」
男が叫んだ。
顔面はケロイド状にただれており、頬の一部から下の骨が見えていた。灰色の眼球は飛び出しており、かろうじて眼窩につながっている感じだ。髪はほとんどない。鼻は欠けてふたつの孔がむき出しだ。首筋は腐った野菜のようにボロボロ。裸足の指がいくつか欠けている。破れた作業服から見える腕のあちこちがまるで木のうろのように穴だらけだ。
……腐った肉のにおいがする。
ホラー映画から飛び出してきたような、ゾンビさながらの男――足元には長柄の斧があった。
「こいつは、何なんだ!」佐々木が叫んだ。
「大声を出すな、佐々木」
「何で、こんなやつがいるんだ? まるでホラー映画じゃないか」
佐々木が、まるで踊るようにぐるぐると回った。辺りに声にならない罵詈雑言を吐き散らしている。どうしていいのか、どう解釈すればいいのか分からないのだ。
神原も同様だったが、かろうじて男を押さえ続けた。ボロ布を男の口に巻きつけたが、そのままもぐもぐと喋り続いた。
「ぼ、ぼくの家に、勝手に上がりこみやがって」
「家だって?」
「おまえら、レヴィから逃げ遂せたのか、運のいい」
ゾンビ男の声は聞き取りづらい。
「あの化け物のことを言ってるのか?」神原と佐々木は顔を見合わせた。
「レヴィ……ぼくの犬」
「ぞっとするが、それはあの化け物のことか?」
「ぼくの言うこと何でも聞く。かわいい」
神原はその言葉を聞いて、ぴんときた。葉月刑事と訪れたアパートの写真を思い出し、目の前のただれた顔の持ち主に重ねた。
サカガミ工場の行方不明の男。
――失踪したと思われていた窪田だった。
「生きていたのか……窪田」
神原の呟きに応えるように、ゾンビ男が顔を傾けた。
「ぼ、ぼぼぼ、ぼくの名を?」
「ああ、知ってる。サカガミの工場で働いていたろう?」
「誰だ? お、おまえは」サカガミというキーワードに敏感に反応し、窪田が斧を構えた。あの会社に良い印象がないようだ。
「おれは、……行方不明の人間や、事件に関わる人間を調べていた」
「じ、事件?」
「この町で起こった連続殺人だよ」
神原がそう言った途端、窪田はくくくと笑い出した。
「れ、レヴィが、食べちゃったんだよ。いけないやつだ」
窪田はうっとりとした顔を浮かべた。
「馬鹿な。まるでペットが庭先でネズミを捕まえたかのように言うんじゃない! あの怪物は人殺しだ。多くの罪のない人間を襲った。いまも警官を運んでいった。どうするつもりだ?」
「だ、誰だって、何かを殺してる」
佐々木のことばに、窪田はむっとしたように反論した。ぼろぼろになった顔からでも、何となく表情が分かるのが異様だった。
「しゅ、しゅしゅしゅ……習性に逆らえずそうなった……んだ! れ、れれれ、レヴィは、本当はおとなしい……サカガミにひどいことされたから……にんげんに恨みあるんだ! しかたない」
窪田は猿ぐつわされながら、ガムを噛み続けた。器用なやつだ。
「ふざけるな。好美はサカガミと関係ない。私の娘を襲った道理なんぞあるか!」
窪田は佐々木の言葉を聞いて、しばらく呆然と不思議そうな顔を浮かべた。
「よしみ?」
「私の娘だ」
「レヴィに分かるわけ……ないだろ。バカだな」
神原は呆れて、窪田を黙らせようと思った。せめて、くちゃくちゃとガムを噛み続けるのを止めさせようとした……が、窪田は急に神原の手を逃れると、地面の斧を拾って振りかぶった。体が半壊してるとは思えぬ素早さだ。
「くそっ。しまった」
神原がライトで照らしたその刃には、古い血がこびりついているのが分かった。おそらく人間の血であろう。神原は河原で見つかった被害者たちの傷口が、大ぶりな刃物で切り刻まれていた理由に思い至った。
そうか。こいつもレヴィと呼ばれる怪物の凶行に加担していたのか。つまり、化け物の歯形を消すために、この男が死体を切り刻んでいたのだ。
「じ、じじじ……自業自得だ!」窪田が佐々木に襲いかかってきた。「みんな、レヴィの……餌だッ」
斧が佐々木の懐中電灯を砕いた。同時に、その刃が佐々木の手首を切り裂いた。血がぼたぼと床に落ちる。うぐっと呻いた佐々木を、窪田はそのまま蹴り倒した。
「この野郎!」
神原が窪田に向かって体当たりした。ゾンビ男の体は思った以上に軽かった。さらに窪田の首を掴んで、地面に打ちつけようとする……しかし、斧を持ったまま窪田は神原を振り払った。映画のなかのゾンビはたいていパワーがあるが、この窪田の力もなかなかだった。
レールに足を取られ、神原はプラットホームに頭を打ちつけてしまった。
「あ、あああ、厚かましい!」
窪田のかっと開いた口には汚れた牙のような歯が並んでいた。臭い息と汚れた唾がほとばしる。立ち上がろうとする神原に向けて、窪田は刃を振りかぶった。だが、その隙に佐々木は拳大の大きさの石を拾い、窪田の顔に向かって投げつけた。それは命中し、窪田はもんどりうって倒れた。神原は窪田に飛びかかった。斧を奪い、遠くに放る。
「縄をくれ! 何か縛るものを」
佐々木がホームの隅に残っていたロープを用意した。神原はゾンビ男の両腕を後ろに回し、きつく縛った。
「は、放せ、ち、ちくしょう」
釣られた魚のように窪田がもがく。
「こいつは、何なんだ?」
佐々木が汚れたタオルで右手首を縛りながら言った。
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