第36話 第二部:繰り返しの時間

【第二部】


 雷鳴のまたたき。

 いつの間にか部屋が漆黒に包まれていた。神原浄はがばっと起きた。気づかぬうちに数時間も寝ていたようだ。

 冷気に身震いした。コートを羽織り、窓の外を見る。

 雨の気配はするが、物音はしない。

 永眠していたかも知れないとなかば冗談半分に考えたが、そう思うと気が楽になった。睡眠薬を使わずとも悪夢を見なかった。夢には誰も出てこなかった。とても安らかな感じがしたのだ。

 テーブル上の酸の抜けたビールを一口飲んだ。いくつか用意していた道具を鞄に詰めて、外に出た。もちろんウイスキーの酒瓶も忘れずに。

 静脈血のような赤黒い空――灰色の雲の残滓が彼方にわだかまっている。ぶるると鳩がどこかで鳴いていた。

 ……だが、それ以外はとても静かだ。

 客のいないコンビニの店員が、こんなことしてていいのかと他の職を考える時間だ。新聞屋が憂鬱な気分で起き出す時間だ。獣が朝一番に捕らえる獲物を想像してほくそ笑む時間だ。

 霊たちが、昨日と同じことを繰り返し始める時間。

 神原には、二晩目の逢魔が時がやってきた。


 客のいなくなった商店街。浮浪者のひとりが、神原浄の物々しい格好を見て、どこか呆れた様子で消えた。シャッターで覆われた店の向こうに、あの不良少年の霊が見えた。神原の姿に気づいたらしく、霜の降りた地面に唾を吐くと近寄ってきた。

「よお、おっさん」

「おれの名は、神原だ」

「神原のおっさん。あんたが正しかったかも知れないな。今日はいろんな奴に話しかけたが、結局口をきいてくれたのはあんた一人だった」

 少年はわずかに照れ隠しするように、リーゼントの髪を押さえて言った。

 神原は驚いていた。ふつう地縛霊というのは、一日を繰り返すものだ。目の前のヤンキー少年の霊が、昨日の出来事を覚えているというのはずいぶん奇異だった。

「なんだか素直じゃないか、おまえ」

「やめろよ。おれの名は――」

「ユズルだろ。おまえ。自分が死んだってことに気づいたのか?」

「仮におれがそうだとして、霊だとして、おれはどうすりゃいいってんだ」

「成仏して、天国へ行くのさ」

「へっ、蓮の花があって、仏様のいる場所かよ。そんなクソ面白くもないところ行けるか」

「この商店街よりもいい処かも知れないぞ。この街の向こうに、おまえのようなのを導いてくれる老人がいる。神社にいる水口って人だ。相談してみろよ」

「使い切れないシンナーやビールがあるのかよ。無料のタバコとゲーセンがあるのか」

 神原はふっと笑った。

「おれは行ったことがないから知らない。だが、おまえは不思議なやつだな。そこまで考えられるなら、とっくに自分が霊だということに気づくはずだ。それなのに、なぜそのままなんだ?」

 繰り返すが、普通の霊は一日単位で同じことを繰り返す。だが、そういった意味でこの少年幽霊は特別といえた。生前にシンナーで酔っ払ったまま死んだので、一日のサイクルが狂っているのかも知れない。

「おれは、そうかもな~って言ったんだ。おっさんの言うことなんか、信じちゃいねえ。それよりも、娘っ子探してんだろ。……あれ見ろよ」

 驚くべきことに、ユズルの指さした先にあの及川好美がいた。あいかわらず人形を抱えたまま踊るように商店街を歩いている。

 彼女は一日のサイクルを繰り返しているのだろうか?

「あの子……薄気味悪いったら、ありゃしねえ。こんな明け方にひとりで遊んでるぜ」

「ああ」

 確かに、気持ちのいい風景ではなかった。紙袋のウイスキーをあおっていたせいか、神原には少女がスローモーションで動いているように見える。霧の中に浮かんでは消える陽炎のような姿。神原は目をこすった。

「どこへ行くのかな?」

 ユズルも少女に興味があるようだ。

「川辺だ」

 神原は言った。「配水トンネルに行くんだろう」

「トンネルぅ。どうして?」

「殺された場所だからさ」

「ひでえハナシだな。何でそんな処に戻るんだよ。怖くねえのか」

「霊は同じことを繰り返すからだ。あの子はいまだ家族を探しているし、自分が死んだことに気づいてない」

 おまえのように、とは神原は言わなかった。少年は少し悲しい目をした。

「おっさんが、パパママのいる場所へ連れてってやれよ」ユズルが言った。案外こいつは優しいやつなのかも知れない――神原はそう思った。

「そうするつもりだ。これからその用水路に行く。父親が待っているはずなんだ」

「あの娘の親父が、こんな夜明けに何やってんだよ。おっさんもそんな山登りみたいな格好して何しに行くんだ?」

「娘の足を探しに行くんだ」

 ユズルはあんぐりと口を開けた。そして、遠くの少女を見るために改めて目を細めた。

「おっさんの言う通りだ! あの子、足が一本ねえぞ」

「どこかで無くしたらしい。それを父親と探すんだ」

「アホか。見つかるわけないだろ!」

「ああ。おれもそう思う。だが、友だちが必死なんだ。手伝ってやりたい」

 ユズルはぼりぼりと頭を掻いた後、手を叩き合わせた。

「……ふーん、面白そうだ。ちょっと見物させてもらうかな」

「おまえ、用水路まで来れるのか? 地縛霊は、遠くまで行けないはずなんだがな。だが、カンベンしてくれ。遊びじゃないんだ。おまえみたいなのがついて来られても困る」

「いつまでもこんな何も無いヒマな場所にいられるか。おれがどこ行こうが勝手だろ。それにこのおれ様を目障りだとか何とか、先公みたいに決めつけるんじゃねえよ。止められるもんなら、止めてみろ」

 神原はその言葉通り手を出そうとしたが、やめた。どちらにせよ、霊の体はのれんに腕を押すように止められないのだ。

 好きにしろ、とだけ言った。

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