第49話 あの人。

「元気でよかった…。シュシュは?」

「柊も…、元気」

「よかったね。いつも、海くんに任せてごめんね…」


 加藤美香、今俺と電話をしているこの人は俺のお姉さんだ。

 すごいわがままでだらしないこの人が…今は婚約者までできちゃったのか…。俺にはまだ遠い未来の話だったから、お姉さんとは今みたいに言葉を交わすだけ。言わなくても分かる、俺たちは誰よりもお互いのことを理解しているから…。だから、俺が柊のことを紹介してあげたんだ。あの日、親と喧嘩をしたお姉さんに…。


「シュシュ…、彼女できたの?」

「うん…。めちゃ可愛い子と付き合ってるよ」

「へえ…、よかった。もう私なんか忘れたよね?」

「そんなこと聞くわけないだろう?」

「だよね…。あの子が幸せになってほしかった…。私はもうシュシュのそばにいられないから…、あの日…私に言ってくれたあの言葉をいまだに覚えている」

「それが自分の記憶さえ消してしまうほどのショックだった…ってそんなことが本当にあるとは思わなかった」

「忘れさせたのよ。私が…、もうそんなこと考えなくてもいいって…」


 柊には誰にも言えない悩みがある。

 でも、それを悩みと言うか…トラウマって言うか…、本人しか知らないと思う。ある日、柊が悩んでいることの一部だけをお姉さんが言ってくれた。お姉さんもどうにかしてあげたかったけどな…。忘れさせるのが一番早いって言うから…、俺は友達として柊のそばで彼を見守ることしかできなかった。


 一緒にゲームをしだり、一緒に出かけたり…それだけだった。


「そして、海くんももうあの癖を捨ててほしい」

「はあ…?いきなり何を…」

「いつまでみんなと仲良くしたい!みたいなことを考えるつもり?周りの大切な人だけを考えよう」

「……今日二度言われた…」

「フフッ、海くんは私の弟だからね。カッコいいし、たまに変な女がしつこく付き纏ったりしないのかなって心配になるのよ」

「俺もお姉さんみたいになりたいな…」

「私はただのゴミ、よく知ってるよ…。でも、あの時はそうしないと本当に死にそうだったから…シュシュが私を救ってくれた。婚約者がいるくせに、高校生と寝る女なんて…」

「だよね…。分かる」


 特に、お姉さんのことを非難したりしない。それは強制的なことだったから、誰が言ってもその決まりは変わらないクソ人生だった。だから俺はお姉さんのことを見逃す、それから用意されたレールを脱線したお姉さんはそのわずかな時間を楽しんだ。


「もう、私のことはいいよ。海くん…」

「うん」

「お金で買えないものは世の中にたくさんある、だからその貴重な時間を楽しんで…今日はこれで終わり!」

「うん…」


 電話を切ってから、静まり返るこの家で一晩を過ごす。


「私は…お父さんとお母さんの操り人形じゃないよ!」


 目を閉じると、あの時の記憶が思い浮かんでしまう。まだ高校生だったお姉さんが居間で親に声を上げていた。「婚約者が決められた。美香は私たちの決まりに従えばいい」その話にお姉さんは絶望する。当時、お姉さんと付き合っていた彼氏はお父さんの一言で別れてしまった。怖い…、いまだにその涙声を覚えている。


「私の一番好きな…人と別れちゃった…。お父さんのせいで、お父さんの…。海くん、海くん…海くん…」

「お姉さん…」


 お姉さんは綺麗な人で中学の頃からずっと人気者だった。モデルの仕事をしながら学校に通っていた彼女は、いつの間にかみんなに高嶺の花と呼ばれていた。そして毎日手紙を送る先輩たちは、いつも「美香によろしく」って俺にしつこく頼んでいた。もちろん、全部捨てたけどな…、お姉さんがそんなこと好きじゃなかったから。


 そしてお姉さんはあるお金持ちの目に立って、彼らがお父さんと密かに政略結婚を決めていた。お姉さんはその生贄になって自由を失う、今の時代にそんなことあるのかってお姉さんに話しても、その返事は「世の中には狂っていることばかりだよ」って…。それでも俺には笑ってくれたお姉さんの姿を、俺は絶対…忘れられない。


「なんで、そんなことを勝手に決めるのよ!私は私の人生を生きる!そんなことは二人が決めることじゃない!」

「お前の夢にどれくらいの価値があると思う?決められたその人生を生きていくだけで十分だ。美香、くだらない話をするなら仕事に戻る」

「……」


 いっそ、思い出せないほど…、心の底に封印したいな。


「こんな生活をいつまで続ければ終わるんだ…。俺は絶対お姉さんみたいになりたくない…」


 精一杯隠して、また学校で笑顔を作る。こんな暗いところは見せたくないから、たとえそれが柊だとしても俺は隠して、隠して、隠して…一人で抱えるつもりだった。ずっと俺一人で抱えて、今はみんなと思い出を作りたい。今だけ、今にしか作れないことを…それが欲しかったんだ。


 また朝が来たら、笑顔でみんなと会えますように…。

 眠る寸前までそう思っていた。


「……」


 でも、やっぱり一人は寂しいな…。

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