92話 なにが人か…③

「諦めが悪いのは認めるよ……変な話していい?」

「人の話を聞くのは好きだよ」


 こういうところ、きっと彼も本当は気にしいで、オレが罪悪感を抱かないようにそうしてくれているのだろう。いまは、それに素直に甘えでもしないと、何かがおかしくなってしまいそうだった。


「……もし、なんかがあって記憶喪失になったら、それは自分だと思う?別の人だと思う?」

「同じ人間か、ってこと?」

「うん」

「そういう話、キミは嫌いなのかと思ってたな。さっきから思ってたんだけど……誤解だった?」

「好きじゃないです。そういうのって人それぞれじゃないですか。答えを出す必要がないものを、わざわざ考えたくないんです」

「こだわるのが嫌い?」

「というか、好きとか、嫌いとか、その時点で好きじゃない。……言ってて自分でもおかしいなって思うんですけど、白黒つけるのが、いい心地がしない、というか」


 そもそも何かを好きとか嫌いとか言えるほどに熱中したこともないし、明るくもない。そんなこと言えた義理も権利も自分にはないと思っている。自信を持って明確に言えないことを、問い続けるのも、迷い続けるのも自分には資格も余裕もなかった。


「その気持ちはちょっとおれにもあるよ。学問としては理系の方が好きだ、わかりやすいし、素人分野には正解がある。まあその正解って言ってもあとから覆されることもあるけどね。ほら、ラクダのコブに水があるとかさ、嘘だったじゃない」

「水じゃないんだ」

「おれたちの代のころに図書館にあった本とかはまだそう書いてあったね。どうする?明日から1+1は2じゃありませんでした!なんて言われたら」

「……嫌だな」

「だよねぇ、自分の中のあたりまえだと思ってるものをさ、間違っていたとしても指摘されるのは正直いい心地なんてしない。なんだか自我が蹴られたようなさ。まあそれを認めて生きていくか、認めたふりをして生きていくのが賢い。自分は間違ってないんだ!って暴れたところで、そんなにメリットがあるとは思えないんだけど、なぜかそういうのが自分らしさなんて持て囃されたりしてね。面白いよなぁ」

「……自分らしさってそんなに大事なんですかね」

「大事なんじゃない?少なくとも今の世の中、賢く生きるなら口をそろえておいたほうが良い。個性が大事とか、自分のことを大切にしよう、とか」

「もうすでに、矛盾してるじゃない。答えを言いながら答えはないなんて、まるで誘導尋問みたいだ」


 自由に見せかけた束縛じゃないか。そんなもの。


「……」

「まあいいや、怒っても、嘆いてもどうしようもないですから」

「で、何だっけ、記憶喪失なら別の人間かどうかの話か、それちゃったね。……周りがどう望むかじゃないかな」

「……」

「周りが同一の人物であってほしいと願うなら、きっと同じ人物で、違う人物であってほしいのなら違う人物というか」

「なんで」


 自己認識の話をしているのに、彼はそこに他者を見ていた。


「だって前のこと覚えてないのならさ、なにを根拠に自己を形成する?周りの証言だろ?あなたは馬場幸哉って名前で31歳。仕事は福祉事務所の職員。って言われたら君は何も覚えてなくてもユキくんだ」

「うん……」

「まあ、そう言われても記憶喪失前と後じゃ人格が違うってこともありえるし、周りの人がやっぱり別人だっていい始めたらまあそれでいいだろうし。なかなか一人で決められることじゃないと思うよ、そういうのって。自分で決めろっていうけどさ、無理だよね。全てが全て決められるわけじゃない」

「……」

「まあこれはおれの適当な思考実験の出力結果だから、どうするかは君次第だと思うけど。まあおれの言うことなんて信じないほうがいいよ」

「そんなこと、ないけど……」


 そもそも、こんな問う人次第の問題に答えを見つけようとしていることが馬鹿げていることは自覚がある。だからこそ、オレは彼の考えが知りたかったのだ。


「……おれね、自己とか自我ってさ、大したものじゃないと思ってるんだ」

「そう、なの?」


 意外だった。オレから見た彼は、どこか確固たる自分の考えのような、信念のようなものを持っている人間に見えたから。人とは違う考え方を持っていて、けれど常識に、世間に歩み寄っている。だからこそオレは彼のことを信用できたのだと思う。安易に何かを批判するような人だったら、きっと仕事以上の関係にはならなかっただろう。


「だってさ、気分がいい時に君は幸せなんだよって言われたら幸せな気がしてくるし、気分が悪いときに君は不幸なんだよって言われたら不幸なような気がしてくるじゃない。そもそも考え方なんて結構周辺とかに影響されるしさ、時と場合にもよるし」

「それは……」


 少なくとも、自分はそういう人間だった。福祉とはこういうものだよ、社会とはこういうものだよ。ってえてきた知識をまるまんま信用して生きている。


「おれさ、昔はすんごくスレててね、世間は糞クソだ、とか愛情なんていらないとか、結婚なんてしたくないとか思ってたんだよね。でも今じゃ真逆だ。若いうちに恋愛しておけばよかったな、とかもうちょっと就活頑張って続けられそうなところで働いて、適当でもいいから誰かと籍入れておきたかったなって後悔してる。まあ今更取り返せもしないし……ただ、悪いことをしたような気がしてる」

「なんで?」


 考え方を変えなければ、きっと彼がいま罪悪感で潰れる必要はなかったのではないか。どうして信じるものをあえて変えてしまったのか。


「……枷が欲しいんだよ、おれが生きているために重圧が欲しい。自由って、意志の弱い人間には途方もなさすぎて、扱いに困りそうだから」

「……重圧、なんて嫌な言葉使うのやめてさ、理由が欲しいって素直に言ったらどうだい?」

「なんだ、ユキくんおれの取り扱い方覚えてきたじゃない」


 なんだか困ったように笑った。この人は、ここで笑える人間なのだ。


「浅間くんはさ、わざと暗い言葉使うよね。……他人にも、自分にも」

「性格悪いって素直に言っていいんだよ?」

「言われたいの?」

「……ほんとおれの扱い上手くなったなぁ。そうだね、理由が欲しかったのかもしれない。今はいいよ、父さんと母さんがいる。けど、あの二人を失ったらさ、おれはもう何にもないんだ」

「そんなことはないでしょ。オレは読んでないけど、浅間くんの本を楽しみにしてくれている人はいるじゃない」

「……違うんだよ。執筆も、ほかの何かも、人の代替にはならないんだ。……おれが生きるために愛していい人間が欲しい。最悪な人間だろう?生きてる人間をものみたいに言って」


 確かに言葉にすると、それはものすごく暴力的に感じた。けれど、そんなこと。


「当たり前なんじゃないですか」

「……」

「自分にそんな価値がないって思って、人を愛したり愛されたりすることからずっと逃げてきたんです。でも、結局カオリちゃんに影響されちゃって、まだこそばゆいんだけれど、人に愛情を持ったり、持たれたりするって嬉しいんだなって思って。まだ全部は受け入れられないですけど、やっぱりもったいない気がしちゃって」


 まだ、彼女の優しい言葉の半分も受け入れられてない。オレはオレのままで居ていいなんて微塵も思えないし、自信をもってなんて言われても持ち方がわからない。それでも、彼女の思いを無碍にするのも申し訳なく、ただただ飲み込める範囲を飲むことをよしとしてもらっている。それでも、ただ職場と家を往復するだけの人生よりはよっぽど色がついていた。


「きみの考えがそうやって変わったように、おれの考えも変わっただけだよ。また数年後はリア充爆発しろって言ってるかもしれないしね。変わるんだよ、自分って思っているものだって。だから意固地になって自分を定義したがるよりはさ……おれはもう少しフラットに生きたいかな。定義づけした方が生きやすい人もいるんだろうけど、いまのおれはそれを後悔してるから」


 彼はけたけたと笑いながら話す。どこか彼を誤解していたのかもしれない。可哀想な人だと思っていたけれど、こんな笑い方もできるのだ。


「だからね、おれ自我とかくだらないと思ってるの。そんなものに拘って無駄に頭使ってかしこぶるくらいなら、目の前にある自分の大切なものたちのことを考えたい。そこにおれを入れるか入れないかは気分次第だよ」

「それは、ちょっとだけ同意するよ」


 オレの自分がわからないと、彼の自我を定義したくないはきっと別ものだろうけれど、大切な人の為に生きたいというのはきっと一緒だった。それが彼にとってご両親で、オレにとってはカオリちゃんだっただけ。


「考え事は、落ち着いた?」

「……ん、まあ。今日はありがとうね」

「いいの。おれもね、さみしんぼだから」


 エントランスでオレの荷物を下ろすのを手伝ってくれた後、じゃあね、そう言って彼はまた車に戻って行った。

 ……ねえ君は、自我なんて下らないと言ったけど。


 どうして、そのくせ自分のことはすっぱりと諦めてしまうんだい?

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