50話 甘美な日常を…①


「ごめん、リツ。今日はもうオレ帰るね」

「珍しいね。ユウちゃん」

「約束があって……」


 そんなに謝らなくていいのに、なんだか大げさだ。キィちゃんがこのあと来るから、紹介でもしようかなと思ったのだけど、用事があるなら仕方ないか。


「ごめん!来週は遊ぼうね」

「わかった。楽しみにしてる」


 そう笑うと、どこか安心したのか足早に去っていった。こんなこと、今まで一度もなかったのだけど。

 彼と僕は、いわば幼馴染のような関係だった。彼の母親がうちの熱心な信奉者だから、彼が母親のお腹の中にいたころから僕は知っている。父親も名簿上うちに名前があるが、アルコールとギャンブルの方が大事な人間のようだった。

 土曜朝の集会の後、彼はうちに上がっていって遊んでいくのが日課になっていたので、急に予定が空いてしまった。ふと視界にユウちゃんの母親が映ったので、遊びついでに呼び出してみた。彼女は喜んだ様子でこちらに向かってきた。


「司祭様、すみませんいつもうちの息子が……」

「そんな大袈裟にしないで、僕はね。貴女にもユウトにも会えて嬉しいから」


 彼女も彼女で可哀想な人なのだ。好きで結婚した男は職場を首になって、飲んだくれになって。だから、この世界がおかしいと思うことで精神を保とうとしている。


「……大丈夫?最近は辛いこととかない?」

「ユウが、最近帰りが遅いんです。学校なんていかなくていいって何度も言って聴かせてるのに、あんなところに行くから洗脳なんかされるの。ちょっと間違うだけでいじめになんかあってしまったらもう、私どうしたら。あんな閉鎖的空間で、どんどんおかしくなってしまう……」

「そんなに心配しないで、ユウちゃんは強い子だから、大丈夫だよ」


 最近はその疑心暗鬼が強くなりすぎて、国がおかしいとか、政府は洗脳をしようとしている、なんて言い出す始末だ。それだけ追い詰められているのは可哀想だし、それを受け入れてやるのが僕の”仕事”だ。


「辛いと思っていること、なんだって僕には言っていいんだよ?貴女の苦しみは、きっと他の人たちには理解ができないほどに深すぎる。だから、きっと周りは理解してくれないよね」

「なんでどいつもこいつも、あんな危ない物に自分の子供を任せられるの?どうかしてる、どうかしてる。政府が私たちの行動を抑制して、一部の特権層だけが利益を享受できるように洗脳するために学校なんてあるのよ」


 あらら、典型的な陰謀論にでも染まってしまったか。どこでそんなものを受信してきたのだろう。思想を持つことはとても素敵なことであるけれど、これじゃあ貴女が僕の元じゃないところに行ってしまいそうで怖いなぁ。”そっち”の類友と出会って、そちらに帰属意識を持ってしまったりなんてしないよね?


「苦しいね。でもアオイ、貴女はよく頑張っているし、とても思慮深い優しい人だ。……外の世界の人間たちはものすごくひどいことを言うからね。君の聡明さに誰も気づかない。だからその賢さは、苦しみは、ここでだけ吐くんだ」

「わかりました……」

「僕は貴女が生きていてくれるだけでうれしい、それにユウちゃんは僕にとって大切な子だ。私たちで愛してあげようね」

「はい……っ」


 涙の溜まった、綺麗な瞳でこちらを見つめられる。ああ、そうだ。君たちは僕にその眼差しをむけてくれていればいい。信じて、信じて、僕から離れられなくなってしまえ。貴女は無駄な思考なんてしなくていい、僕を信じていれば、それだけで幸せなのだから。


「まず、その聡明さをひけらかさないこと。苦しくても、貴女が考えて苦しんでいることを僕に教えて。赤の他人なんて、貴女の苦しみを非難するだけだから」


 彼女は少々感情的になりすぎる節がある。だから、もう一度言ってあげないとあっという間に感情に押されて僕の言葉を忘れてしまう。お守りのように繰り返すと、晴れやかな顔をして下がって行った。

 ああ、人の心を操るのなんて容易い。



 人間は多面性を持っている。社会の中で生きていくには、その一面一面を使い分けないといけないけれど、それはとても大変で苦しいことだ。だから、僕の前では使い分けずに、本当に思っていることを吐いていい。他の人たちには絶対に言えないようなことでも、僕はしっかりと受け止めてあげよう。……そうすれば、僕に恩義を抱いて、僕から離れられなくなるから。どんどん依存して、どんどん社会から孤立してく。そしてそれを僕が受け止める、その繰り返し。思考を放棄し、社会性を捨てていくことが、人間が一番楽に、それでいて誰からも愛されなくなっていく方法。だから、僕は貴方を愛そう。どんなに醜くても、どんなに差別的で破壊的なことであったとしても。だって、誰も本心を否定されたくないだろう。そして妄信して仕舞えばいい。何も信じられないくらいなら、僕を信じておくれよ。他のものが見えなければ、なにも怖いものなんてないのだから。僕は僕が愛する人たちが生きていく支えになろう。だって僕は


「神様だもの」


 儀式の時に被る視界を遮るヘッドドレスを外し、肩に羽織った真っ白なシルクの布を脱ぐ。真っ黒な肌着を纏った骨張った薄い皮の肢体が露わになる。男であり、女であり、どちらでもない体。


「自分で言うのもなんだけど、綺麗だよなぁ」


 全身鏡に映る自分の体は、まるで時が止まっているようだった。17にもなってまだ第二次性徴がきていない男の子のような体をしている。このまま僕は老けていくのだろうか、まだ流石に実感はない。

 僕という神を信じない人間も、この体を見れば一瞬で堕ちる。必要であれば別に全て晒したって構わない。そのためにこの肉体があるのだ。僕が神だという説得力を増してくれる。

 両親は、最初きっと僕が生まれた時この体を受け入れられなかったのだろう。だから、神様の生まれ変わりとでも思うことでそのショックを和らげたのだ。僕は神様として育てられてそれを謳歌している。

 教義は僕が両親と少しずつ考えた。まだ、僕がどちらかと言うと男性としてのアイデンティティを持っていた頃に、僕を女の子だと思って声をかけてきた人間がいた。僕は思わずそれに違うと答えてしまった。そしたらものすごく申し訳なさそうな顔をされて、僕は女の子と言われることよりもそんな顔をされる方が嫌なのだと初めて気がついた。


「リツは、みんなに本当に思ってることを言って欲しい」


 そこから、司祭……僕には何を言ってもいいという教義が生まれた。罪を告白することでその罪を僕が洗い流す、なんて適当なそれっぽいことを言うようになったら、信者たちが勝手に解釈して教えがどんどん生み出されていった。僕が人を幸せにしているのだ。

 それに、僕が生まれたことを最初受け入れられなかった両親が、いまこんなに幸せそうに生きて、僕を愛して、受け入れてくれている。僕の考えは、あの時の両親の苦悩すら救ったのだ。

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