43話 躯も志も碌でもなく…②

「……はぁ……」


 息苦しくて目を覚ます。軽度の発作だ、大したことじゃない。枕元に常備している吸入を吸ってしばらくしていればおさまる。日の出前の一番寒い時間帯の空気は肺に悪い。冷や冷やとして、刺激物そのものだ。

 あれから、おれという人間はどこか狂ってしまった。昔は人よりすこし大人しいだけの人並みに優しくてへらへらとしている子供だったのに、見えている世界の景色ががらりとかわってしまった。もしかしたら、あの時彼女に可愛らしかった「ツバサくん」なんて人間は連れて行かれてしまって、おれという存在は彼の記憶を引き継いでいるだけの別の意識なんじゃないかと妄想が働いてしまう。ああ、死に恋焦がれるようなこの衝動的な快楽は、あの時死んでしまった自分を取り戻したいのかもしれない。自分という存在を意識する瞬間は、代えがたいほどの快楽を伴うだろう?


「吸っても、いいか」


 洗面所で軽くうがいをして、その水の冷たさに意識が覚醒してしまった。困ったな、明日は打ち合わせがあるのに。でもこういう時が一番”いい話”が書けるのだ。

 ボッとライターに炎が灯る、この生温い暖かさが好きだ。吸入薬の横にあるタバコの箱に手を伸ばす。ここしばらくご無沙汰だったのだ。別にこのくらい、いいだろう。

 二十歳になって、なんとなくの好奇心でタバコに手を出した。その頃はだいぶ喘息をコントロールできていた時期で、若気の至りというものか、それとも周りの大学生に馴染みたかったのか、父への憧れだったのか、なんとなく吸い始めた。吸った瞬間咳き込むものかと思っていたが、吸入薬に慣れているおれの気管はその煙を心地よく受け入れていた。文学サークルで一番よくしてもらっていた二つ上の先輩が強烈なヘビースモーカーだったのも影響しているかもしれない。彼はおれの文章をいたく気に入ってくれていた。おれは彼が気に入らなかった。文学サークルにいるくせに、彼は4年間で一本しか物語を書かなかった。


「浅間の書く話はいい感じにガキ臭くていいんだよな」

「……?」

「命に責任だの、意味だのを見出したがるその感じ。厨二を拗らせてて面白え」

「……それは褒めてるんですか?」

「褒めてるよ。その感性を忘れずに書いてもらいたいもんだ」


 先輩は変な人だった。傍若無人という言葉が似合う、全てを機嫌で決めるような人間だった。彼の理論は口から出まかせで、一貫性もなく、無責任だった。自分のことを賢いと思っているバカという表現がぴったりだ。


「そんな風に生きてて、罪悪感とか感じないんですか」


 おれはそんな先輩の生き方が癪に障った。自分を否定された気になったからだ。両親に対して申し訳ないと思いながら生きている自分を、馬鹿にされたような気がした。


「お前らは人間を大事にしすぎるんだよ」

「……」

「ジンケン、なんてのは結局は人をうまく動かす処世術だろ?あんなもん本気にしてるのかよ」

「……」

「人を大事にしてやれば大事にされ返す、ってのをいい感じに綺麗にそして全世界に通用させようとしたのがあのガイネンだよ。セカイヘイワのために丁度いいからな。本質としてお前は大事にできてるか?」

「……そうやって、人に罪悪感を抱かせるの、やめてもらっていいですか?本質なんて、曖昧な言葉を使って」

「そういうところだよ」

「厨二、でしたっけ」

「あ〜な。オレはそんなんどうでもいい。オレが面白いと思ったことをするだけだ」


 先輩に一度何故生きているのかを聞いた。そんなん面白いからだろ、と答えた。理解ができなかった。ああ、道理で人を理解しあおうなんて言葉が薄ら寒いんだ。一生、先輩のことは理解できないと思ったけれど、自分みたいになにかを恨んでいないとやっていけない人間にとっては、非常に羨ましい限りだった。どうしておれはこんなにも惨めなのに、お前はそんなに笑っていられるんだ?ほんと不平等だな。

 先輩はそこそこの企業の営業職に就職して行った。一度だけ大学に顔を出して、おれの新作を読んで面白いと一通り感想を述べた後、一度も来ることはなかった。嵐のような人だった。

 煙を吸うと、先輩を思い出すのだ。他人のことをなんだと思っているのだろうと思ったけれど、よくよく考えたらあれは深く考えすぎるおれを茶化して遊んでいたのかもしれないと、今になって思う。これを吸っている間だけ、おれはあの人のように自分勝手になれるような気がしたのだ。いや、十分自分勝手に生きているが。定職にもつかないで、結局は何もわからなくなった親の脛齧り。これで自分勝手じゃないっていうのはただの世間知らずだ。流石にもう、不幸ごっこの中二病は卒業した。

 バレるともちろん怒られるから、怒られるのがめんどくさくて喫煙していることは公言していない。もう少し周りはおれのことを放ってくれていいのに……。ああ、だからおれはあの先輩とつるんでいたのか、自分勝手だからおれが隣で咳き込んでても気にしなかった。そうだよ、人間もう少し自分勝手に生きていい。人にあれこれ良かれと思って口に出すのも自分勝手、それにイライラするもの自分勝手、それでいいじゃないか。……よくよく考えたら、十分人間というのは傍若無人にできている。理性なんて持て囃されているものは、所詮それを正当化するための屁理屈だ。所詮人間を突き動かすものは感情で、それに理由を後からこじつけているだけ。この世に誰一人として完全に理論的に生きてるヤツなんていないよ。

 今日はやけに思考が回る。調子がいいとパソコンを立ち上げる。自分みたいな感情的にならないと物語を描けないポンコツ作家は、調子の良い時にエンジンを温めないと、永遠に良いものがかけないのだ。ワープロソフトにどんどんと文字列が連なっていく。ありがたいことに今日は変換との相性も良く、作業を阻害するものも少ない。多少息苦しいのが残っているくらいだ。

 生命に理由なんて考えるのが甚だおかしいのだ。生物的観点、社会的観点、諸々色々視点はあるにせよ視点の数が多ければ多いほど世の中は複雑になっていく。あるもんはしょうがないじゃないか。それで何が悪い、生きてる理由なんてその人が適当に考えて、それを信念にして、どうしようもなく弱っちい自我を確立させる麻薬だ。今回のテーマはこれにしよう。書き殴って、書き殴って、できあがったらこの自分とはバイバイだ。一貫したテーマで何本もかけるほどおれはお利口ではないし、そこまで才能もない。なにより同じ思想を常に信じられるほどおれは強くなかった、正しいと思えなかった。自分の思想を正しいと思って振りまくのは相当自分に自信がないとできないことだろう?自信がないから言い訳のように、どんどんと別の思想に染まった作品を書いていく。そうやって全てを断罪して、全てを馬鹿にして、正解なんて壊して、指で差して、鼻で笑って、ドブに捨ててやる。お前らが答えだと思ってるものをぶっ壊してやる。賢ぶった、カス共が。


 なんで生きてるか、って?おれは、自分の生み出す物語で、人を壊したいからだよ。丹奈ちゃん。

 だからおれはまだ死ねないのだ。死ねないと思っていてもうっかり死んでしまうかもしれないし、そこまで強固なものじゃない。だから、偶然死んでしまう瞬間まで、自分の煩雑で複雑で子供じみていて、斜に構えたつもりで甘ったれな情緒を書き殴って生きてやる。壊れてしまえ、おれの私利私欲のために、全部壊れてしまえ。


 全ては、全て果たした後の死という快楽を極上のものとするために。おれはまだ、生きていたい。

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