29話 戻れない自我…②
「ああそうだ、昨日うちのから気になる話を聞いたんだ」
「気になる話?」
「うちのぶっきらぼうな娘がいてね、そいつの客に竿も穴もあるやつがいたらしい」
「……何でしたっけ、半陰陽?」
「病気の名前なんて興味ないよ。で、それとうちの娘がデートしたんだと」
「漫画かなにかみたいですね、実在したんだ」
珍しいことの話なのに、彼は全く食いつく様子がない。少しだけ口をつけたコーヒーに角砂糖を2つ足して、くるくると混ぜだす。そういえば数年前、子供舌だと言っていた。
「興味ないかい」
「そういうのよりも、ごくごく普通の生活の話の方がおれは好きかな。昨日夕飯何食べた、とか、こういうことで笑った、とか。一番人間の価値観が出てくるところって、その人にとっての日常の面じゃないですか。当事者やその娘さんにとってそれは日常になるのかもしれないけれど、少なくとも辻江さんはそれを非日常と定義してる、でしょ?じゃあまだ別にどうだっていいかな」
「ん、まあ……そうだね。そういう人がいるって情報と、実際いるのと接点を持つってのは別だからな。偏見だろうと珍しいもんは珍しいよ」
「まあ、大声で言ったり当事者に言ったら人でなしって言われるだろうけれど」
「……あんたなんかその最たる例だろ。言われて嫌じゃないのか」
日常と非日常を切り分けるのであれば、いま対峙している男なんて、それこそ非日常そのものだ。普通の人間からはかけ離れていて、そのような存在もこの世にいると知識としては知っていたとしても、なかなか受け入れがたい存在。
「おれは異常者なんで、別に差別されても構いませんよ。もしおれが今健康体で、普通にサラリーマンとして働いていたとしたら、自分みたいな人間一番気持ち悪いって思うに決まってますから」
「あんたこそいい加減その妙にへりくだったようにして人をバカにする癖、やめたらどうなんだ」
「あはは、厳しいこと言うなぁ。でもそのくらいきつく言ってもらわないと一生直らないですからね。自分でも自分の天邪鬼っぷりには手を焼いているんですよ?これでも」
そういいながら笑う様子には反省の欠片も感じられない。相変わらずいい性格をしている。大人しそうなのは顔立ちだけだ。
「そんなこと言ったら、私だって十分異常者だろう。こんな年になって結婚もせず、その辺で拾った赤の他人と共同生活をして親ヅラしてるんだから」
自分の生き方が世間一般のそれとは大きくずれていることは十分に自覚している。保護という名目で住まわせている子の中には、未成年もいるのだ。親に見捨てられているような子が多いとはいえ、やっていることは誘拐とさほど変わらない。訴えられたら負けるだろう。
「そういうところそういうところ、そういうのが聞きたいんですよおれは。そんな思考になるのは、前提として辻江さんの中には「このくらいの年齢になったら結婚していなければならない、ってのと赤の他人と共同生活をしてかつ親のように振舞うのはおかしい」って考えがあるからでしょう?実際は40代の2割は未婚なんだからそこまで珍しい確率でもないのにね。5人に1人はそうなのに」
「んなこと言われたってねえ」
「数字を出されても納得できないし、結婚しなくてもいいんだよって周りから言われても違和感がある?」
頭の中で言おうと整理していたことをぽんと先に口にされる。その通りだ、するつもりは一切ないけれど、自分ではない誰かにそれをまるで”いいこと”みたいに言われるのも違和感がある。
「……」
「結婚しなくていい、って自分に言ってくる相手は、大抵婚姻制度そのものを前時代の呪いと称して悪魔化してくるし、現に自分のところにいる子の中には結ばれて中には幸せに生きてる人間もいるのだから、それを否定されるのもものすごく腹が立つ。どうか世間一般にはそれをめでたいものだという認識を持っていてほしくて、そのめでたいことをしないという選択をした自分のことを肯定されるのはなんだか気味が悪い。かな?」
「ほんと、あんたは先回りして言いたいことを言うよな。心でも読まれてるみたいだ」
はぁ、だからこいつと話すのは若干めんどくさいのだ。普段はアホなガキとばかり接しているからこそ、こうやって知性を求められる会話は難しい。こいつと初めて会ったときも、ウチにいるガキたちとそうそう変わらない年齢だったはずなのだが、そのころからこいつは随分と大人びていたか。
「人の心なんてわからないですよ。多少話のネタにと思って心理学はかじってますけど、学んでみていいとは思わなかったから全部忘れました。気分悪くなるだけだったんで」
「いかにも好きそうじゃないか、心理学とか。先生は頭の出来いいだろ?」
「別におれも、学力は平均くらいでしたよ。文章を書いてるから文系だと思われがちですけど、中学の時の模試の結果は国語はともかく社会はそこまでよくないし。どちらかというと理系のほうが得意なくらい」
意外だった。文章を書いている人間はみんな文系だと思っていたのは偏見だったか。まあ、本を読んだり文を書いたりしてるだけで、我々とは頭の作りは違うのだろうが。
「高校も数学コースだったんですよ。昔は医学の勉強がしたかったんです。医者になりたいとかではなくて、自分の体のことが知りたかった。いつまで生きられるのか、完治はするのか。病院の先生の話をもう少し詳しく知りたかった」
彼はそう言いながら目を伏せた。そして、どこか後悔がにじむような声色でつづけた。
「ただ、部活で適当に書いた小説が、なんか有名になっちゃって。この名前はその時に使った名前です」
「ああ……」
「そしたら、小説家というか、文字を書いて食っていくことを辞められなくなっちゃって……夢、見ちゃったんだよなぁ」
そういえば彼の昔の話はあまり聞いたことがなかった。こいつにも普通のガキだった時代があったことに安心したが、昔から小説家を目指していたわけではないというのは少し驚きだった。物珍しい憧れられるような職業についている人間は、昔からその夢を抱いているものだと思いがちではある。
「その時は、どんな話を書いたんだ?」
「自死をする話です」
「また、ずいぶんとたいそうな」
若干予想はできていたが、高校生で書いた作品がそれ、とは随分と……。
「死にたかったんです。おれ」
「……そう」
「……珍しく、おれが駄弁ってますけど。続き、聞いてもらえます?」
「聞いてあげるよ。大事なお客様だからね」
そう、こいつは大事な客なのだ。体を重ねたことはないけれど、立派なお客様だ。こうやって話を聞いて、金をもらえるなんて。私なんかに話すよりも心理カウンセラーにでも話せと思うが、本人はそれをよしとはしない。というよりもできないらしい。
「……辻江さんは、おれのもう一個の病気の方。知ってるじゃないですか」
「ああ」
「端的にいうと、そっちの症状が強すぎて。死ぬことでしか解放されないと思ったんです」
なんとなく想像はついた。というのも、先生との出会いも彼が病気と呼ぶものが原因だったためだ。
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