第28話 孤独の船乗り

 MML三階。第一小会議室。


 小さな机を挟み、船越と神奈川県警二人が座っていた。


「とにかく……今は驚きでいっぱいだ。特に襲撃された研究室の網野はとても優秀な奴だった」


 船越は目線を斜め下に向けながら語る。警察官二人も彼の話に同情の頷きをした。


「しかし彼とは連絡が取れない。同じ研究室にいた釣井さんもそうおっしゃっていましたね。もちろん彼が犯人に連れ去られた、という可能性ももちろんありますが、我々警察としては、彼が犯人である可能性も考えなければなりません。それに、網野さんと親交の深かった天海さんも現在失踪中とのことで。こちらも関連性があるのかどうか、現在調査中です」

「そうか……天海も……」


 と、船越は頭を抱える。自分が所長を務める研究所での殺人事件。研究員の失踪。彼は弱りに弱っていた。以前のような傲慢な様子の面影すらない。


 まだ若い二人の警官も方を震わせる船越を静かに見つめていた。


 会議室の扉が叩かれる。中年の警官が入ってくると二人に伝えた。


「二人とも、撤収だ」


 彼の口から出た言葉に二人は目を丸くする。


「え、撤収ってどういうことです?」

「この件は公安が預かることになった。だから俺たちは撤収だ」

「公安? え?」

「俺もよくわからん。あまり首を突っ込むなとも言われたしな。とにかく俺たち神奈川県警は撤収だ」

「そんな」

「いいから!」


 中年警官も納得がいっていない様子だったが、警察官歴の長さから公安出動の案件の恐ろしさは重々承知していた。若い警官二人も彼の叱責により、ようやく席を離れる。


 会議室に船越ただ一人が残された。


 次はノックもなく扉が開かれる。入ってきたのは左腕にギプスを嵌めたスーツ姿の男だった。


「船越さん、お久しぶりですね」


 項垂れたままの船越は目線だけを彼に向ける。


「やはりお前か、浦田」


 浦田は船越の目の前に来ると、先程まで警官がいた場所に脚を組んで座った。


「その腕はどうした?」

「公安ですからね。大きな怪我の一つや二つくらいありますよ。てか、最初に訊くことそれですか」

「訊きたいことが多すぎて、どれから尋ねればいいかわからんのだ」

「物事の適切な順序がわからなくて、よく今までMMLの所長が務まりましたね」

「お前こそ、公安警察のわりに人を見る目がないようだな。俺がMML所長を上手くやっていたように見えていたなら随分と節穴だぞ」

「嫌でした? 所長の仕事は」

「身の丈に合わないとは思っていたな」

「じゃあ、辞めさせてあげますよ」


 浦田は一枚の写真を取り出し、船越の前に置いた。


「何だこの写真は」


 その写真はごく一部の人間だけが持つパスキーを使って入ることができるMMLの地下特別研究施設の中の様子が写っていた。さらにその場所には二人の人影。一人はスカートを捲し上げ、鱗の生えた脚が写っている八尾比。もう一人はそれを見る船越だ。


「船越さんが八尾比博士を利用し、人魚化の研究を行っているということにして発表しようかと思いましてね」

「……なっ!」


 船越は両手を勢いよく着くに叩きつけ、椅子から立ち上がった。


「どういうことだ! 人魚化の研究はお前の指示だったじゃないか!」

「状況が変わったんですよ。人魚化の鍵となる人魚が見つかった。船越さんが教えてくれたんじゃないですか。もうMMLは必要ない。解体の準備を進めるのです」

「解体だと? MMLは人魚化研究を極秘に行うための施設だろう? 玲を治すためにも、解体など必要ないはずだ!」

「語弊があるようですね。MMLは人魚化研究に役立つ個体を見つけるための施設です。しかも副会長が経営するセイレーン社が多大な出資をして運営できている施設でしょう? あなたがどう抗おうと、こちら次第でMMLなどどうとでもできるんですよ」


 浦田は脚を組む。彼の方が優勢だった。堂々とした様子の浦田を背に、船越は窓越しの景色を眺める。窓の先は船越の気持ちとは真逆の天気だった。深い青の海が太陽の光を反射して光り輝いていた。


「先導者が網野に囚われています。奴から取り返してくれば、新たな名誉を与えなくもないですよ。いずれ網野は人魚に会いに来るでしょう。その時に必ず玲の身柄を取り返すのです」


 浦田は腰を上げ、船越の背後に立つ。右手を彼の肩に置き、耳元で囁いた。


「船越さんだって、人魚はお嫌いでしょう。一緒に頑張りましょうよ」


 そう言い残すと、浦田は静かに会議室を後にした。


 再び一人になった船越はスーツのポケットからスマホを取り出す。ロック画面には船越が学生時代に撮った写真が使われていた。まだ笑顔を浮かべていた頃の船越。その横には先輩であった汐入麻里の姿。


 二人は同じ大学で海洋生物学を学んでいた。優秀だった麻里は船越にとって憧れの存在だった。今思えばその気持ちは恋にも近かったかもしれない。一方で嫉妬の気持ちもあった。船越は中高では成績トップであったし、生徒会長も勤めていた。部活では主将の肩書きもあった。皆が羨望の眼差しを自分に向けていた。大学に入ってもそうなると信じて疑わなかった。


 しかし麻里がいた。中高と続けていたヨット部に入ろうと思ったら、そこにも麻里がいた。大学生活はそれなりに楽しかったが、麻里の存在によって心は満たされなかった。皆が憧れているのは自分ではなく麻里。その有象無象の中に自分が入ってしまっていたことがさらに自己嫌悪を高めた。


 もちろん船越自身の大学での成績も決して悪くなく、かなり優秀な方だった。麻里が突出して良過ぎたのだ。麻里の引退後は部長の肩書きも引き継いだが、拗らせている船越について行く者はいなかった。


 麻里が卒業した後、彼女とは疎遠になった。そして気がつけば船越も卒業し、実家の近くの水族館に就職した。


 ある日、ニュースで『セイレーンガーデン』という大型ショッピングモールが建設されるという話を耳にした。アナウンサーは企画者を招いてインタビューをしていた。朝食を食べながらニュースを見ることは船越にとって習慣となっていたので、適当に聞き流していた。しかし聞き覚えのある声がテレビから聞こえ、反射的に顔を画面に向ける。


 ゲストである企画者の下には『セイレーン社 社長 汐入麻里』の名前があった。苗字が違ったが、その苗字にも見覚えがあった。麻里がヨット部の部長を務めていた時代、副部長を務めていた男の苗字だった。


 彼女のことなので、てっきり海洋関係の職業に就いているか、研究を続けているものだと思っていた。それがショッピングモールを運営する会社の社長? 船越には信じられなかった。あれだけ海洋生物を愛していた麻里が、どうして全く海と関係のない仕事をしているのか。


『セイレーン社は元々、水族館を経営していたとのことですが、なぜショッピングモール経営を始められたのですか?』

『私は大学時代、海洋生物学を学んでいまして。水族館を作った時はそんな海洋生物をもっと多くの人たちに知ってもらいたいと思っていました。そしてありがたいことに小さな水族館なりにも人気が出て、オリジナルグッズの販売も始めました。そのグッズも様々な方が喜んでくださり、グッズを知って水族館に来てくださった方もいらっしゃいました。そこで私は海洋生物イコール水族館という考えに縛られていたことに気が付きました。水族館でなくとも、海洋生物の魅力を知ってもらえる機会はある。そうやって多種多様な製品を開発するセイレーン社が生まれました。多種多様の生物が暮らす海と同じように進化し続けたのが今のセイレーン社の姿です』

『それでは、今後のセイレーン社の展望をお聞かせください』

『今も少しお話しましたが、セイレーン社のオリジンは水族館です。いずれはもっと大きな水族館を建設し、海のエンターテインメントをお届けしたいなと考えています』

『それはとても楽しみです』

『実はもう計画は始まっているんです』


 と、夢を語る麻里の目は大学時代と変わらない輝きを放っているように船越には見えた。


 ただの魚の世話役をしている船越とは違う。麻里という女は今でも海を愛し、野心を燃やしている。若い頃と同様に嫉妬もしたが、理想のままの麻里であったことに安心もした。


 しばらくして、人魚が発見された。船越を始めとした海洋生物好きはもちろん、多くの人々が浪漫を感じたことだろう。無論、日本のニュース番組どころか世界中がその話題で持ちきりになった。その波は二年経っても落ち着くことがなく、第一発見者である八尾比丘尼子や海洋学の有識者たちはメディアに引っ張りだこであった。全世界の水族館もその影響を受け、問い合わせが殺到していた。事務の人々が嘆いていた姿をよく覚えている。


 ある日、麻里から連絡が来た。

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