『白い腕』④




○小畑希望、二日目の夜




 車を出して一時間、海が見える国道を走っていた。


「ここまで来たら、車もあんま通らんねー」


 助手席の彼女に話しかける。


「・・・・・・」


 講義の終わりに買ってきた座布団の上の彼女が応える。ちなみに、講義は途中で帰った。講義を抜け出したのは、初めてだ。


「明かりも減ってきたやろー。ここらへん、静かでよかとばってんスーパーとか小さかけん、不便やし、遊ぶとこも海ぐらいしかなかしねー」


「・・・・・・」


「まぁ観光客にとっちゃよかとかねー。適度な時間ドライブできて、海で遊ぶ。ホテルもすぐやけん、疲れたらすぐに休める」


「・・・・・・」


「ホテルにはレストランもあっし、部屋に戻れば休めるしテレビも観れる。エッチぃことをしようが誰もとがめない」


「・・・・・・」


「はは、セクハラやったかな」


「・・・・・・」


「もうすぐ対岸の明かりも見えんくなるとさ。黒い海の向こうに見える星空が、めっちゃきれかとって」軽くわき見運転をしながら言う僕は、少しばかりはしゃいでいるようだった。


「今日が晴れとって良かった」


「・・・・・・」


 彼女も、気分がいいようだ。




 目的の海に着いた。


 駐車場から砂浜へと降りるための階段に腰掛け、バッグの中からタオルにくるんだ彼女を出してあげた。


 周囲に民家はなかったが、タオルは取れなかった。ここへ来る直前、車から何人か散歩をしている人たちを見かけていたのだ。車が駐車場に入ってくれば、さすがに分かるだろうが、歩いて近づかれると、さすがに気づかない可能性が高かった。


 しばらく、黙って景色を眺めていた。


 きれいだった。眼前には、月や星の光をわずかに反射している砂浜。その奥には黒い海が広がり、正面には何もさえぎることなく水平線が見えた。視界の端、左右にある、山の端までの水平線。水平線と山の上には、星々が大きく瞬いていた。


 星だけを見るなら、さらに長い道のりになるが、もっときれいに見られる山中があった。


 実際に、サークルの同期や後輩とドライブに行くときは、あちらの方が人気だった。でも僕は、この黒い海と夜空が一つになった景色のほうが好きだった


「そろそろ出たい?」


 左のタオルに問いかける。


 彼女は答えない。僕は周囲を確認し、包んでいたタオルを開く。そわそわしている自分に気が付く。


 タオルの上に腕が載っている状態になる。手のひらが、上を向いていた。


 タオルごと彼女を膝の上に乗せて、僕は引き続き周囲の気配に注意を配りながら、またしばらく景色を眺めていた。


 人の気配はない。


 車もさっきからずっと通っていない。


「もうよかかなー」


 言って、ぼすっと背中を地面に預け、あおむけになった。空には星々。本当に、今日が晴れていてよかった。


 今は、彼女は僕の顔の隣だ。僕の耳に、人差し指が触れそうだ。


 しばらくぼうっとしていると、いくつか星が流れた。


「今流れたっ」「おー、流れたねー」「また流れたっ」などと、つぶやいていた。語彙の貧困さを露呈してしまい、呆れられていないかと心配した。しかし、彼女はそんなことは気にもせず海と星空に見とれていた。それがわかった、確信できた。


 彼女は美しかった。いつもよりさらに。いつもよりさらにきれいな彼女を見ていると、なんとも切ない気持ちになった。


 これは、恋なんだろうか? 人を好きになったことなんて、ないのだけども。


 僕は体を少し起こし、右肘と左腕で体重を支えるようにした。


そして左にいる彼女の手を取り、つないだ。指と指を絡ませる。俗に言う、貝殻つなぎというつなぎ方で。


 彼女の小指が一本飛び出しているので、できそこないの貝殻だ。


 おかしいもので、繋ぐまでは、何かとんでもないことを自分がしているようで、躊躇した。けれど繋いでしまっては、もう絶対に離したくなかった。


 いつも通り、彼女の手は冷たかった。その冷たい手をじっと見つめていた。


 途中で周囲を気にしていなかったことに気づいて、はっとした。誰も通らなかったようだ。


 ずっと握っていると、僕の体温が伝わったのか、温度を感じるようになった。それが僕には、彼女に拒まれてはいないような気がして、少し嬉しかった。


 僕たちは起き上がり、座る体勢にもどった。そのとき、彼女は手首の関節で折れ曲がり、肘にかかった重力に従って倒れた。


「っ、ごめん」


「・・・・・・」


 どう思ったのかはわからなかった。とりあえずは彼女の肘の重心を僕の左腕に預け、倒れないようにした。


 後ろから見ている人がいるとしたら、どう思うのだろうか。夜の海、星空、手をつないでその景色を見ている男女(ただし女に体はない)。自分で想像してみると、美しい絵だと思えた。


 ふふふ。なんか、おかしいね。


 色々と考えた。これは幸せなのだろうか、幸せと感じてよいのだろうか。彼女の持ち主であった女性の家族は、今どんな気持ちでいるのだろうか。右腕の見つからない交通事故は、どの程度のニュースになるのだろうか。今誰かに見つかり、警察に捕まればどうなるのだろうか。あの時、本当に誰にも見られてはいなかっただろうか。今期の単位は全部取れるかなぁ。もうすぐ文化祭だが、写真部の展示はうまくいくだろうか? 写真はどれを使おうか。山口は……(チッ)、舌打ちが出る。あいつは本当になんなのだ。本当、気にいらない。そういえば、志田と川野が付き合っているというのは、本当だろうか。二人はかわいい後輩だ。楽しく過ごしてくれたらいい。そうだとしたら、木下先輩は落ち込むのだろうか。酒につき合わされ、またあの人の醜態を見ることになるのだろう。まったく、あの人はしょうがない先輩だった。僕はなれるとするならば、長峰先輩のようになりたいものだ。そういえば――。


 星のように、考え事に限りはなかった。まぁ、すべてどうでもいいことばかりだったが。


 ぼぉっとしているのも悪くはなかったけれど、そこまで時間はない。写真を撮らせてもらった。


 海と星空は、背景としていい場所だった。色んなイメージで、かなりの枚数を撮った。


「さぁ、そろそろ帰ろうか。ここにはいつまでおっても飽きんけど、いつまでもおったら寝ちゃいそうだわ」笑いかける。


「・・・・・・」


「また周りの注意忘れとったしね。そろそろ色々自重しとかんと」


 話しかけるともなく言って、僕は立ち上がり、彼女を抱いて車へと戻った。


 往路と同じように、彼女を座布団の上に座らせる。


「さ、家に帰るまでが遠足ばい」言って、車のキーを回してエンジンをかけた。



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