『白い腕』③




●山口雄大、0日目




 偶然だった。


 梅雨が明けて、久しぶりに会った同じサークルの後輩女子に、


「食べ過ぎましたよね?」


と指摘されて、少し長距離のロードワークに出たのだった。


 二週間続いた長雨は学生たちに退屈を与え、俺たちに二週連続で焼肉屋へと足を運ばせ、いつもの倍の頻度で飲み会を開かせた。


 いつもより、わずかだが体に重みを感じた。けれど、走るのは心地良かった。


 時間をかけ、テンションの上がる曲を選りすぐったプレイリストが、イヤホンから流れていた。それを聴きながら風を感じるのは、とても気分がいい。


 走り始めて小一時間、軽いランナーズハイのような状態にもなっていた。体の熱が心地よい。


 しかし、その熱は急激に下げられることになる。道路に妙な形で停まっているトラックと、通りにバラバラと転がった人の体によって。


「……は?」


 その光景に、俺の思考は停止した。


 硬直する体。聴こえなくなる音。


 それに反して、心臓が大きく動いているのは感じられた。動かない首と眼が映す景色は映画館の中ほどの列の真ん中で、映画を観ているようだった。


 トラックの中でハンドルを強く握って、下を向いている運転手。着ている服からすると、あれはコンビニの商品を運ぶトラックだろうか。震えている、ようにも見えた。


 それが、映画の画面の真ん中。


 そして、劇場でいえば左最前列の席に、小畑がいた。


 文科系サークルだけの球技大会で着ていたときと同じジャージを着て、歩道から少し出た場所でしゃがみ、立ち上がり、そしてすぐそばの脇道へと消えていった。


 他に動いているものがなかった。だから気づけた。おそらく、今は事故が起こった直後だ。


 それから俺は、人として正しい行動と、間違った行動をした、ように思う。


 運転手に駆け寄り、落ち着かせて、携帯電話を借りて警察に電話をした。


 そして、ちょっと躊躇ったあと、事故にあった女性――女性であったものたちを、歩道へと移動させた。『はっきりと固体のもの』だけを移動させた。『液体よりも固体寄り』ぐらいのものには触れなかった。


 俺は原付で移動しているとき、小動物の死骸を道路で見つければ、たいてい道路脇に動かして、それ以上死体を傷つけられないようにする。


 だが今回に限っては、そんな小さな善行を心がける俺の、優しい部分が出たわけではない。


 単純に、死体が見てみたかったのだ。人間は切断されたら、その断面はどんな風に見えるのだろうか。筋肉は、脂肪は、どんな色なのだろうか。


 そんなことも知りたかったし、それ以外のものも見たかった。


 しかし残念ながら、ほとんどのことを覚えていない。


 体だったものと、バッグと携帯、拾うべきであろうものを拾っていった、ことだけ。


 さすがに気が動転していた。ミイラ捕りがミイラになってもおかしくなかっただろう。


 すべてが、普通の大学生には刺激が強すぎたのだった。口の中が気持ちワルイ。ヒドイアジダ。


 女の表情はどんなものだったのか。そもそも女性の顔を俺は見ることができたのか、できなかったのか。いやそもそも、女の頭部は『はっきりと固体』だっただろうか。


 警察に何を訊かれ、俺はどう答えたのか。


 運転手がどうなったのか。


 気になることは山ほどあったが、あれから他の車があの道を通ったのかさえも、俺には分からなかった。


 そんな状況でも、分かっていることはいくつかあった。


 帰ろうとして気づいた口の中の不快感から、どうやら俺が吐いたらしいこと。


 警察官の間で聴こえた会話から、女の右腕が見つからなかったらしいこと。


 部品たちが再び轢かれてはいなかったらしいこと。(おそらく車は通らなかったのだろう)


 そして、小畑希望があの場にいたことを、俺が話してはいないことだ。



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