第16話 月のない夜に
今日も残業だった。疲れた体を引きずるように自宅のあるマンションにたどり着く。働いても働いても終わりがない。
ああ、これは夢で例の前世の記憶なのだなとフェリシエルは思った。エントランスに入り郵便受けを開けるとそこから生ごみがドバドバと落ちてきた。
「いやあーーーっ!」
明け方、フェリシエルの叫び声が響く
「お嬢様、どうかなされましたか!」
ヘレンが心配そうに入って来た。
「ごめんなさい。大丈夫よ」
夢から覚めたフェリシエルは少し震えていた。前世はここよりも安全な世界だと勝手に想像していたが、どうもそうではないらしい。
◇◇◇
最近、さぼりがちだったお妃教育がまた本格的に始まる。帰りの早かった兄とポツリポツリ言葉を交わしながら、フェリシエルは憂鬱な思いで夕食を食べていた。すると執事のテイラーがやってきた。
「お嬢様、殿下より贈り物でございます」
あの籠に宝石を入れて返してきたのかもしれない。いや、違う。多分、あれは彼女を貶めるために言っただけで、王子はそんな無駄遣いはしない。フェリシエルは興味を失い「私の部屋へ」と言って食事を再開した。
「おい、礼状はすぐにしたためろよ」
兄が口うるさい。フェリシエルは生返事をしつつ、バターが香る舌平目のムニエルを堪能した。つけわせのアスパラもおいしい。
満腹すると二階にある自室へ渋々もどる。王子に令状を書かねばならないので、食後のお茶は部屋でいただこう。
だが、両開きの扉を開けた瞬間、部屋の中央に置いてある多いなプレンゼントの包に驚いた。
「え? ナニコレ」
四角柱のそれはフェリシエルの腰までの高さがある。そのうえ、重い。服飾品の類ではないことは明らかだ。添えられていたメッセージを見ると「いついかなるときも、愛するフェリシエルとともに 君の部屋の床に置いてね」と書いてあった。ものすごく嫌な予感がする。
そして箱の中からできたそれは……。
「なんじゃこりゃ!」
前世の言葉で叫んでいた。
「お嬢様、お言葉遣いが乱れております」
侍女のヘレンにたしなめられたが、彼女自身もほかの使用人たちも戸惑っている。使用人によって手早くかつ丁寧にとかれた包の中から現れたのは、大きな砂時計だったのだ。さすがのファンネル家の使用人たちもきょとんとしている。
「いらないから、これ、この部屋にいらないから! 第一、この部屋のインテリアに合わないじゃない!」
フェリシエルは絶叫した。あまりのショックに王子に対する意趣返しは、しばらくお休みすることにした。
ここまでやるか? ふつう……。
その晩フェリシエルはなかなか寝付けなかった。王子の嫌がらせが悔しかったのではなく、昨晩見た夢が原因だ。若くして死んでいるし、あまりいい人生ではなかったようだ。
(やっぱり、今世では幸せになりたい!)
すると窓の外でこつんと何かがぶつかる音がした。最初は風かと思ったが、音はしつこく鳴っていた。大きな音ではないが、規則的に何度もこつんこつん何か窓ガラスに打ちつける音が響く。妙に耳障りでイラつく。
ここは公爵家邸。警備は厳重だ。侵入者であるわけがない。そうは思いつつも、少し怖かった。しかし、こんな夜中に人を呼ぶこともないだろうと思い。フェリシエルは窓辺に近寄り、カーテンを開けた。するとそこに人ならざる者の影が……。
「ネズミ?」
「ネズミではないと言っているではないか!」
「ひっ! しゃべった! 殿下?」
そこにはサテンシルバーのとてつもなく可愛いハムスターがいた。手にはドングリを持っている。どうやら、それで窓をこつんこつんとしつこく叩いていたようだ。フェリシエルはその愛らしい姿を想像して身もだえした。
「なんて、可愛らしい」
「そういうのいらないから。さっさと部屋へ入れろ」
ちっちゃなハムスターが地団太を踏む。
フェリシエルは慌てて窓を開けた。
(そういえば何しに来たの?)
フェリシエルはとりあえず疑問を頭の隅においやり、思うぞんぶんなでなでして頬ずりをした。ハムスターは諦めているのか、しばらく彼女の手の中で大人しくしていた。もふもふで温かくて柔らかい。とくとくと心臓の音が伝わってくるようだ。
「そうだわ。殿下、お茶を用意いたしましょう」
「いや、この姿だ。それはいい。そんな事より、その砂時計をひっくり返せ」
そう言われてフェリシエルは部屋の片隅に置かれた大きな砂時計を思い出した。この部屋のオブジェとしてはどうかと思うが、仕方がないので言われた通りひっくり返しにいく。地味に重い。
「あの、殿下、この砂時計って?」
「砂が落ちるまで7時間だ。私はその間ここに滞在する」
「ハムス……神獣のお姿のままならば、大歓迎です」
「つくづく不敬なやつだな」
「そういえば、王宮抜け出してきちゃったんですよね。何かあったのですか」
重い砂時計をひっくり返し終えたフェリシエルは部屋にあるティーテーブルに座る。相変わらずモフモフしていて可愛い。再び訪ねてくることも考えられるので、今度ハムスター用のブラシを特注しようと心に決めた。膝に彼を乗せようとしたが、するりと逃げられた。なかなか敏捷だ。おすまし顔でテーブルのはしにちょこんと座る。
「何かあるも何も命を狙われるなど日常茶飯事だからな。この姿だと何かと不便だから、抜けてきた。まったくメイドのやつめネズミと見ると容赦な……そんなことはどうでもよい。お前はもう休め」
フェリシエルは必死で笑いをかみ殺した。どうやらメイドに見つかって追い出されたらしい。しかも自分でネズミと言っている。
「殿下はどうするのですか?」
「適当に寝る」
そういうとぴょんとソファーに飛び移り丸まった。柔らかそうな、まあるぃマシュマロ。フェリシエルは撫でたくてたまらない気持ちを抑えるのにひと苦労した。
「そういえば、なぜ7時間なのですか?」
「時折あるのだ。7時間ほど人になれないことが」
「それは……大変ですね。公務の時はどうしているのです」
「一応日程は調整している」
「それで殿下のその神獣のお姿を知っているのは私と側近の方ですか?」
「いや、父は知っている。しかし、実際にこの姿を目にしているのは亡き母とお前だけだ。生涯の伴侶にしか見せぬと言ったではないか、もう忘れたのか」
ハムスターが呆れたように肩をすくめた。器用すぎる。ちょっと腹立たしいが、可愛いので許す。この際メイドに姿を見られているではないかというツッコミはなしにした。使用人達には、王子とネズミが紐づいていないのだろう。
「よく今までバレませんでしたね」
「当たり前だ。そんなへまはしない」
「なるほど……」
訳知り顔でフェリシエルは頷くと窓辺に行って月の無い夜空を見上げた。それを見たハムスターが舌打ちする。
「朔の晩にそれが起こるのですね」
どうやら図星だったようで、ハムスターはふんとばかりにそっぽを向く。
「もし他言すれば、お前は死罪だぞ」
こんな愛らしいハムスターに言われてもちっとも恐怖がわかないので、軽くスルーした。
「しかし、殿下がソファーで、私がベッドというわけにもいきませんわね」
「なら、床で寝ろ」
「はあ? 私、これでも公爵令嬢ですよ。その私にそのような真似をしろと?」
憤慨したフェリシエルは瞳をきらめかせ、きゃんきゃんと文句を言う。
「うるさいなあ。明日は早いから、もう寝かせろ。お前もさっさと寝ろ」
フェリシエルは、ソファーにうずくまるハムスターをひょいととり上げると、壊れ物のように丁寧に両手の中におさめた。
「寝ろと言ったはずだが」
王子が押し殺した声で言う。
「はい、今すぐ寝ますよ」
フェリシエルは王子をベッドまで運んだ。
「お前はどこで寝るのだ?」
「もちろんベッドです」
そういうとフェリシエルは燭台の灯りを落とし、彼の横に滑り込んだ。
「こらっ! 結婚前の男女が同衾しては駄目だろう。お前には乙女のはじらいというものはないのか」
「いや、だって、今ハムスターじゃないですか」
「何度言ったらわかるのだ! 私は神獣だ!」
「はいはい、明日は早いのでしょう? 殿下、おやすみなさいませ」
今夜がいい夢が見られそう……。
◇
言うが早いか寝息を立て始めたフェリシエルは見てハムスターはため息をついた。眠りについた彼女は日頃の生意気さが嘘のようにあどけなく清らかだ。仕方がないので、王族ハムスターは寝入った彼女の腕の中から、もぞもぞと抜け出し、ソファーへ移って丸まった。
前は二歳上の自分に向かって、「もっと勉強しろ」だの「他の女性といちゃいちゃするな」だの口うるさい彼女を鬱陶しく思うこともあった。しかし、こう何度も愛想よく笑顔で近づいてくる相手に命を狙われると、良くも悪くも自分に正直なフェリシエルといる方が安らぐ。
もし彼女が自分を害そうとすれば、すぐにわかる。突然の心変わりはあったものの、今のところ彼女に殺される心配はなさそうだった。
フェリシエル自身は変わってはいない。
ならば、いったい何が彼女の心を変えたのか……。
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