第7話


 ◇ ◇ ◇ 八月 一日 時刻不明


 僕は日記に覚えてる所まで書き終え、冷たい岩壁に背中を預けて天井を見上げる。

 アワナ君を連れ去られてから、一日は暴れていたがどうしようも無い。

 携帯電話の充電も切れ、食事も無く、あるのは思い出だけ……もう一つあったな。

『それでこれから、どうするつもりなんじゃ?』

「どうするもこうするも、状況が変わるまで待つしか無いだろ」

 声がした方向……檻の外を見れば、死んだ爺様の元気な幻覚が居た。

 真夏なのに羊毛のジャケットを羽織り、カウボーイハットを被っているのは何の冗談か。

 幻覚の爺様は僕の茶緑に汚れたチャイナジャケットを見て、鼻を鳴らしている。

『お前は役立たずだな。あの子も可愛そうに……お前が帰らせておけば』

「分かってる。全部、僕の責任だ」

『いいや分かってない。だから帰らせなかったんだ』

 天上島に向かう船で、アワナ君に声をかけられた時。

 天上島に着いて、船から降りる時。

 いや……それどころか爺様が死んだ時に、彼女は遠ざけるべきだった。

『お前はあの子に、母親を見てるんだろう?』

「違うっ! 母上とあの子は違う存在だっ!?」

 爺様の姿を借りた幻覚が、僕の叫びを聞いて嘲る様に笑う。

 暗闇で表情は見えないが、その目には爛々と狂気の光が灯っていた。

『お前を溺愛した母親。何もさせない母親。友達を遠ざけ、好きな子と引き離され……』

「黙れぇっ!!」

『お前は女が苦手なんじゃない。怖いんじゃうろ? 母親しか女を知らないから』

『また束縛されるのかい? 何もかも奪われるのかい? 何もさせて貰えないのかお?』

『母上しか愛してくれる人が居なくなったから、死ぬまで離れられなかったんだろ』

 僕の怒鳴り声を無視して、ノイズの重低音が不定の乱高下を脳内で繰り返す。

 爺様の声が、高内教授の声が、僕の声が。脳裏で反響しては頭を揺さぶりやがる。

 視界は歪み果て、皮膚の触覚は失われ……僕は本当にここに居るのか?

「アワナ君は僕と一緒に歩んだくれて邪魔もしなかったっ!! あの子を汚すなっ!!」

『そしてお前がここに連れてきた。だからアワナちゃんは連れてかれてしもうた』

「ぅ……うぅぁ”ぁ”ぁ”」

 髪の毛を掻きむしる。頭皮が引っ張られ、ブチブチと細い毛が抜けて指に絡みつく。

 その髪の毛なのか? ……皮膚の中に細長い何かが、這いずり廻る感触がする。

 心臓が痛い程高鳴り、喉がカラカラに乾いて涙が零れ出す。

「アワナちゃんに何と詫びる? 父親の事も聞く余裕も無く、彼女は今頃……」

「失せろぉっ!!」

 僕の喉から出た叫びが、空間を揺らす波濤の如く視界を揺らした。

 波濤に触れた揺れる視界も幻覚も霧散して、岩の牢獄に戻っていく。

「はぁ……はぁ、はぁっはぁぁ」

「あのぉ……」

 いや。一つだけ幻覚を見る前には無かったモノ……いや者が居た。

「逃がしに来たけどぉ、大丈夫ぅ?」

「……お前、何で」

「何でと言われてもぉ」

 檻の外から僕を見下ろす存在は、二足歩行の蛙にも似た姿をしていた。

 唸る様な間延びした声は、他のユナイタマとは違い比較的聞きやすく。

 同時に、この状況に陥った原因の筈だ。

「私の可愛い孫。アワナちゃんの最後のお願いなのでぇ」

 八尾比丘尼。この島の指導者にして邪教の主が、そんな事を言い出した。


 ◇ ◇ ◇ 八月 一日 午後一〇時 一六分


 八尾比丘尼は檻を開けても、話は聞かなかった。仕方なく背中を追いかけて二〇分。

 僕達は海院神社の裏山にある獣道を通り、島外周沿いの森を歩いている。

 街灯も懐中電灯も無いが、月明かりが足下を照らして明るい。

 それでも緑の海は夜の闇に染まり、潮風を感じなければ闇の渦にも見えたろう。

「おいっ、ちょっと待て……っ!! 何処まで行くんだっ!!」

「島の裏手に船を隠してましてぇ。それで逃がしますぅ」

「アワナ君もそこにいるのかっ!? というか彼女は無事なんだろうなっ!!」

「あの子は居ません~。貴方を助けるのは、アワナちゃんの最後の願いだからですぅ」

「ふざけんな、状況を説明しろっ!!」

 森のド真ん中、漸く答えた八尾比丘尼を掴んで引き止める。

 両生類の体液が体表から滲んで手は滑るが、八尾比丘尼は観念して話し始めた。

「あの子は次代のノロになるんですぅ」

「はぁ? お前がやってれば良いじゃないか。百年間やっているんだろう?」

「この島の……ではなくぅ。我らの神を呼ぶ為の神官としてでぇ」

 その時、僕の脳裏には二文字の言葉が浮かんだ。つまり生贄である。

 こんな邪教で生贄となれば、末路なんて想像に難しくない。

 燻っていた怒りが、目玉から吹き出した。

「あの子を殺すって言うのかっ!! お前達の宗教に関係の無いアワナ君をっ!?」

「殺す訳じゃないのよぉ? 彼女がくとぅるんをお呼びして、ユナイタマ達をニライカナイに連れて行くだけぇ」

 ニライカナイ。琉球神道において祖霊の眠る場所にして、海の底にある楽園。

 だがコイツらの邪教は、琉球神道ではない……つまり碌な場所じゃないだろう。

 何処が殺す訳じゃないのか。僕の表情を見た八尾比丘尼は、困った顔をして続けた。

「本当は私の子、干虎がそうなる筈だったのぉ」

「そういえば地下牢で、アワナ君を孫だと言ってたが……」

「でも怖がって泣いちゃってねぇ。可愛そうだから逃がしたのだけどぉ」

 嘘つけと思ったが、考えてみれば逆に納得がいった。

 なぜアワナ君とご母堂が、邪教から狙われなかったのか。

 それは邪教の司祭たる、八尾比丘尼が手を回していたとすれば説明が付く。

「なのに何で今更……」

「くとぅるんの啓示だからよぉ。私達ユナイタマは啓示に逆らえないぃ」

「……その啓示に、アワナ君の幸せは含まれているのか?」

「くとぅるんから逃げれば、余計に苦しむしぃ。ニライカナイに行けば救われるわぁ」

 月光で照らされた僕達は、僅かな時間睨みあった。

 正確には僕が八尾比丘尼を睨み、八尾比丘尼は困った顔で見上げている。

 遠くで海鳴りの音が聞こえた時、漸く僕の口が動いた。

「僕は逃げない。アワナ君を助ける義務がある」

「止めた方が良いわぁ。ユナイタマ達が全員集まってるのよぉ?」

「そんな事、僕の知った事かぁっ!」

「……怖く無いのぉ?」

 怖いに決まってる。何が起きるか分からない以上、恐怖しか無い。

 だがそれがどうしたって言うんだ。

「僕は見たっ、聞いた、決断もした。だから背は向けないっ!!」

「……助けたとしても、貴方もあの子も辛い目に遭うわぁ」

「クドいっ!! 僕はアワナ君と一緒に、この島を出て行くと決めたぞぉっ!!」

 土地勘は無いが方向から察するに、獣道を戻れば海院神社に着くだろう。

 そうすれば一直線に港まで戻れる。

 僕が来た道を戻ろうと振り返るが、八尾比丘尼が手を離さない。

「なら急いで船に乗りましょうかぁ」

「だから僕は逃げないって……っ!」

「港に行くなら、船で行かなきゃ間に合いませんよぉ?」

 んぐ……確かに森を歩き通した。今から戻っても一時間はかかる。

 だが解せない。八尾比丘尼は儀式をさせるつもりだったろうに。

「何で僕を手伝う。くとぅるんには逆らえないんだろう?」

「だから手伝うのは、正気なうちだけよぉ、急いで下さいぃ」

 僕の手を引っ張る八尾比丘尼が、強引に獣道を急かす。

 本当に従って良いのだろうか。コイツがあの時、僕達を捕まえようとしなければ……。

「貴方には一人の人間として、感謝してますからぁ」

「……皮肉か?」

「娘が逃げ切れた事や、孫の顔まで見せてくれましたぁ。信じるに十分ですぅ」

 背中越しに聞いた八尾比丘尼の声は、涙ぐむ女性そのもので……。

 少なくともユナイタマ達の、忌まわしい唸り声では無かった。

 だから……僕は八尾比丘尼を信じた訳では無い。

 アワナ君の婆様を信じただけだ。

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