第3話 そして僕は『お兄ちゃん』をやめた。
季節は夏本番。
けれども僕の部屋は24時間エアコン完備の快適空間。四季折々を感じさせない、当たり前が此処にはある。
薄暗い部屋にひとり。ビートを刻む。
「まっゆまっゆ真由美ちゃんっ。まっまっまっまっ真由美ちゃあんっ」
遮光抜群のカーテンは時間感覚を狂わせる。
世界から切り離された部屋の中では、一日と二日の違いは曖昧だ。
おとさんは言っていた。入学式以降、一度も登校しなかった場合は七月がデッドラインになると──。
いったいなにがデッドなのか、ビートを刻み続ける今の僕にとってはどうでもいいこと。
それよりもライムを刻んでみたい。しかし『真由美』ちゃんという三文字の言葉だけでは
けれどもリリックは必要ない。僕には三文字だけあれば、十分だから──。
だから今日もビートを刻む。
「まっまっまっ真由美ちゃん……まっまっまっまっ真由美ちゃあん」
少しづつ。本当に少しづつ──。
僕の中でなにかが弾けて、壊れていった。
「まっゆ……まっまっゆっゆっっみっちゃん! 真由美ちゃあん……真由美ちゃあん……チェケラ!」
それでも未だ、完全に壊れられないのは──。
ぜんぶ、妹のせいだ。
そしてまた──。気持ちよくビートを刻んでいると、僕の部屋の前で足音が止まる。
前回は『夜』だったから、今回は『朝』を知らせに来たのだろう。
「ふぁ〜あ。ねっむいよぉ……」
思ったとおり、妹の陽葵(ひなた)がノックもせずに現れる。
なんの断りもなしに僕の部屋に入って来る。
ねむいねむいと、寝ぼけ眼を擦りながら僕のベッドに潜り込んでしまう。
「あとごふーん……」
「こらこら。寝ぼけてないで、顔を洗って来なさい。学校に行く支度をしないとだめだぞ? もう中学二年生になったんだから、しっかりしなさい」
いったいどの口が言えるのか。
それでも僕はお兄ちゃんだから──。
そっと肩を揺らし、体を持ち上げる。
「ほら、遅刻するぞ。シャキッとして」
真っ直ぐ立たせて、背中を叩く。すると妹は決まってハッとしてみせる。
「……わぁ! お兄ちゃんの部屋だったぁ?! ごめーん!」
おそらくきっと、寝ぼけたフリなんだ。
僕が息をしているのかどうか、朝一番に確認しに来ているだけなんだ。
だって僕の部屋から出ていくとき、いつもホっとした顔を見せるから。
あの日も。ピーポーリフレインが僕を包み込んでくれた日も、陽葵が倒れている僕を一番に発見したせいだ。
だから僕は──。
陽葵が出ていってすぐに、ビートを刻む。
やるせない気持ちをビートに乗せる。
「まゆまゆまゆまゆみちゃぁん……」
遮光抜群のカーテンへと、届かぬ想いに手を伸ばし今日も僕は刻み続ける。
「まっまっまーゆーまーゆー……まっまっまゆまゆ……真由美ちゃあんっ……チェケラ!」
こうしていると、落ち着く。嫌なことを忘れ、今でも真由美ちゃんと繋がっているような、そんな気がするんだ。
だからずっと。起きている間はビートに乗せて真由美ちゃんを刻み続ける。
「まゆまゆみーみー……MA・YU・MI! まゆまゆみーみー……MA・YU・MI! ヘイッ! 真由美ちゃあん……真由美ちゃあん! まっまっまっまっ真由美ちゃあんっ! チェケラ!」
しかし、またしても。
「たっだいま〜! もう完全に夏だねぇ〜。あっついよぉ。あついあつい〜」
学校帰りの陽葵が『夕方』を知らせに来る。
世界と切り離されているはずのこの部屋が、ふたたび現実へと引き戻される。
……そうか。もう、そんな時間か。
そして僕がまだ、壊れるわけにはいかない最大の理由はこれから行われる『戦い』にある。
陽葵はエアコンの前に立つとワイシャツとスカートをパタパタして、身体中に冷房の風を浴びた。
「ふぁ〜。いーきかーえるー! お兄ちゃんの部屋はいつ来ても快適だね! すーずしっ」
言いながら水筒を取り出し、ゴクゴクと飲み始めてしまう。
なんとも呑気な雰囲気だが、きっとこれもわざとだ。陽葵は少しでも僕の部屋に長居をしようとするんだ。
「ぷはぁ! この一杯のために生きている! お兄ちゃんも飲む? 陽葵特製アイスティー!」
「僕は大丈夫。それよりも、やるなら早くやろう」
「もぉ。急かさなくてもいいじゃん!」
陽葵は少し、ふてくされながらも体操着に着替えると、手をブルンブルンまわして準備運動を始めた。
「おいっちにー! おいっちにー!」
屈伸にストレッチ。準備運動に余念はない。
そしてひと通り終わると、目の色が変わる。
「……ふぅ。よし! じゃあいくよ、お兄ちゃん! 今日こそは、その歪(いびつ)なカーテンをぎったぎたのずったぼろにしちゃうんだから! 覚悟っ!」
始まる。攻防戦──。
おとさんとおかさんが僕をそっとしてくれている中、妹だけは変わらなかった。……変わらないからこそ、僕への攻撃を始めてしまった。
ピーポーリフレイン前。おとさんとおかさんからキツく言われているときは、陽葵は僕の味方だったんだ。
熾烈を極めた僕とおとさんのバトルに、たびたび割って入ってはおとさんにゲンコツを食らわしていた。「出てって!」「お兄ちゃんをいじめちゃだめ!」と何度も追い返してくれたくらいだ。
僕はカーテンを守るためなら手段は選ばない。もし陽葵が止めてくれなければ、きっとおとさんに大怪我を負わせていたと思う。
我が家は四人家族。でも何故だかデブは僕一人だけ。
だからおとさんとおかさんがどんな強行手段に出ようとも、この巨体ひとつですべてを跳ね除けるだけの力があるんだ。
そして願わずにも図らずに、ビートを刻む安寧の日々を迎えたわけだけど。妹が『最後の挑戦者』となってしまった。
家族の中で誰よりも小柄で非力な妹が、戦う道を選んだ。
勝てる道理なんて、どこにもないはずなのに──。
〝痩せ型小柄タイプvsわがままボディtypeドスコイ〟
結果は火を見るよりも明らかだ。
「なぁ、陽葵。何度やっても無駄だぞ? そろそろ諦めたらどうだ?」
「ふふん。やーだ! だってお兄ちゃんのこと大好きだもん。だから絶対に諦めない! だれがなんと言おうと、わたしはお兄ちゃんを諦めない!」
小さい頃から真っ直ぐで、一度決めたことは絶対に曲げない芯のある子だった。今回はそれが、災いしてしまった。
陽葵は僕に納得させた上で、カーテンを開けさせたいと言っていた。理由は言わないけど、きっと以前の僕に戻ると思っているんだ。
……違うよ。
でもそれで陽葵の気が済むのなら、好きにさせてあげようと思った。
こんなになってしまったけど、僕はお兄ちゃんだ。妹に手をあげたり突き飛ばしたりはしない。
そうして始まったのが、カーテンをかけた攻防戦。
ルールはシンプルに陽葵が僕を押し退け、カーテンに到達できるかどうか。ラグビーやフットボールのようだけど、これは『相撲』だ。
狭い部屋の中ではスピードは無に等しい。
僕が窓の前にデンっと構えてしまえば、ぶつかることでしか突破は図れない。
だからドスコイの僕が負けることは万が一にもありえない。
このときまでは──そう、思っていた。
+++
戦いを続けるうちに、僕は大きな思い違いをしていることに気がついた。
──この戦いは遅かれ早かれ必ず僕が負ける。
日々、弱っていく体を前にして気づいてしまったんだ。
兆しはあった。栄養失調に陥ったというのに、僕は生活を変えられなかった。
ご飯を食べても戻してしまうだけで、まともに喉を通すことができない。
おかさんが腕によりをかけて、ご馳走を僕の部屋の前に置いていってくれるけど、僕はそれをトイレに流して食べたフリをしている。……うん。最低だ。でもそれでおかさんが少しでも笑顔を取り戻してくれるのなら、やるしかない。
そんな日が続けば当然に、人間が生きていく上での必要な機能を果たせなくなる。
だから僕は必ず負ける。それはもしかしたら、今日かもしれないし明日かもしれない。もう、そんなに先の話ではない。
でも大丈夫。だからどうしたって話だ。
僕はもう、決めているから。
真由美ちゃんとの約束を破った世界に、僕は興味を持たない。僕にとって真由美ちゃんはすべてだった。
だから──。
最後の瞬間まで、全身全霊をかけて! 遮光抜群のカーテンを死守する!
ただ、それだけ!
「うあああああああああああ!」
お役目。ちゃんと果たすよ、真由美ちゃん。
チェケチェケチェケラ! フォオオー!
+++
そして、その日は訪れる。
いつかこんな日が来ることはわかっていた。そのときは受け入れて、この世界にサヨナラを告げるつもりだった。
なのに、どうして。
どうして、僕は──。
「だのむぅ、やめでぐれぇ。ぞれだけは……。お願いだがら……」
世界と僕を安寧の地へと切り離す、遮光抜群のカーテン。それを断固たるものにするガムテープが──今、剥がされようとしていた。
突破された時点で、この戦いは僕の負けだった。そういう約束になっていた。
……のに。
大粒の涙と鼻水を垂れ流しながら、懇願していた。カーテンを開けないでくれと、ほかでもない妹に縋っているんだ。
もうほとんど動かない体を必死に動かし、足にヘバりついているんだよ。
「……お、お兄ちゃん…………?」
陽葵は手を止めると、唖然としていた。
ついさっきまで「さぁ、日光浴の時間だよー!」「元気になーれ! おにーちゃん!」なんて、楽しそうにしていたのに。笑顔は消え去り、ただただ唖然としている。
その顔は今までに一度も見た事がない顔だった。……それはもう、大好きな兄を見る顔とは明らかに違ってみえた──。
陽葵は根っからのお兄ちゃんっ子だった。
お兄ちゃん大好き検定1級を持っていると言い出したり、ブラザーコンプレックス認定試験でスコアSを叩き出したと自慢げに話してきたり。
小さい頃から今も変わらずに、言い続けている言葉がある。
『大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになるの!』
それを僕は「バーカ」とお兄ちゃん風を吹かせては、頭を撫でてあげた。
きっと僕は立派にお兄ちゃんをやれていたのだと思う。こんなになってしまったけど。それでもまだ、僕はお兄ちゃんだった。
勝手に入って来ても拒みはしなかったし、戦いだって受けて立った。
……きっと。お兄ちゃんで、いたかったんだ。
いろんなものを失ってしまったけど、僕の中に変わらずなにかが残っているのだとしたら、それは──。真由美ちゃんへの想いと、もうひとつ。
お兄ちゃんでいることだったのかもしれない。
けれど。もう──。
「……お願いじまず…………。ガーデンがら手を離じでぐだざい……お願いじまず…………お願いじまず……お願いじまず……」
お兄ちゃんではなくなってしまった。
みっともなくて、情けなくて。どうしようもなくて──。
こんな男はもう、僕の知っているお兄ちゃんではなかった。
……さっさと、くたばればいいのに。
+++
なにかを得るためには、なにかを失う。
因果応報。等価交換。
この世界はあまりにも、残酷にできている。
……チェケチェケ。チェケラ。
お役目守るYO! 真由美ちゃあん!
最後に役に、立ってみせるYO! 真由美ちゃあん!
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