5 壺中異界

 ◆


 ひろはぼーっと過ぎゆくのどかな車窓の外を見ていた。

 ボックスタイプの座席の向かい側で、ロビンはかかえたリュックによりかかって、うつらうつらと船をいでいる。


 あの後少ししてから、よもぎのスマートフォンにたけるが気がついたというむねの連絡が来たのを機に、解散とあいなったのだ。

 平日の午後も早めの時間なので、少なくとも車両単位で貸し切り状態である。


「あ」

「んぐ……う?」


 不意に思い出して声をあげれば、ロビンが寝ぼけまなこで、それでも何があったのかという意を含んだ声をあげた。


「ああ、いや、大したことじゃないんです」

「…………人を起こしといて、それはなくない?」


 至極ごもっともな意見である。


「いえ、あの、ハーバリウムと壺中之天こちゅうのてんの件で」

「ん……ああ、三壺さんこのこと?」

「ええ、まあ……ロビンが知ってて自分が知らないのはしゃくですけど」


 素直に言えば、ロビンは確かに、と言いながら、くすくすと笑った。


「まあ、それだけ知ろうとしなきゃわからないものが転がってるってことだよね。『三壺さんこくもうかぶ 七万里しちばんりみちなみを分かつ』はみやこの良香よしか神仙策しんせんさくだっけ」


 そんなんでわかるか、と思う。

 そしてこの兄弟子は、それもちゃんとわかっている。


「でも、流石さすがにヒロだって蓬莱ほうらいぐらいわかるだろ?」

「そりゃまあ、そんな有名どころ、知ってるに決まってるじゃないですか。神仙思想における異界の一つ。中国東方にあるとされる島の一つですよね」


 浦島太郎の原型、丹後国たんごのくに風土記ふどき逸文いつぶん浦嶋子うらしまこ伝説の「蓬山」と書いて、「とこよのくに常世の国」と読ませるものは、この蓬莱ほうらいから来ているのではないか、というところまでは履修済みである。そこは腐ってもそういう家系なので。

 ロビンはがさごそとかかえたリュックからメモとペンを取り出して、眉間にしわを寄せ、何度かぐしゃぐしゃと塗り潰しながら書いたページを切り取ってひろに差し出す。


「その蓬莱ほうらいに、瀛洲えいしゅう方丈ほうじょうを加えたのが三壺さんこ。それぞれを蓬壺ほうこ瀛壺えいこ方壺ほうことも呼ぶ……この場合、日本語だと蓬莱ほうらい方丈ほうじょうが同音になるんだけどね」


 案の定というか、瀛洲えいしゅう瀛壺えいこだけやたら書きそんじの痕跡が多く、また一文字もやたらデカい。

 とはいえ、たぶんひろも書いてみたら、同じ風なことにはなるだろうという自信がある。そんな事に自信など持ちたくなかったが。


つぼなんですねえ……」

つぼのような山、らしいからね」


 それを聞いて、なるほど、とひろの中で合点がてんがいく。


仙境せんきょうつぼの中に……そのイメージの行き着いたてが壺中之天こちゅうのてんと」


 壺中之天こちゅうのてん壺中天こちゅうてん壺中こちゅうの天地。

 中国は後漢における一介の役人が仙道をこころざすきっかけとなった、薬売りの老人の持つつぼの中の素晴らしき別天地のエピソードから生まれた言葉だ。


「まあ、考えられるレベルだけど……さらに突き詰めればおう昌齢しょうれいの『一片いっぺん氷心ひょうしん 玉壷ぎょっこり』もつぼの外と中で俗と聖をわけたとも思えるね」


 何故そこまで知っているんだ、この兄弟子は。

 そう脳裏を過ぎるが、いつもの事なのでひろはそれだけにとどめる。

 なんなら、ロビンにはその思いはすでにバレてるし、たぶんイヤなら勉強しろぐらいには思っている気配がする。


「西洋だとつぼかめ生命の水aqua vitaeの器というイメージが強い。マルセイユ版タロットの節制Temperanceとか、まさつぼからつぼへの移し替えだし……まあ生命の水aqua vitaeが後世、ウイスキーやスピリットみたいに、強いアルコールを指すようになったことを考えれば、酒神ディオニュソスの酒甕さけがめとかの影響もあるのかもね……あ、いやエジプトのカノプスつぼとかもあるのかな」

「ロビン、ロビン」


 ひろはそのまま自身の思考のふちに沈んでいきそうなロビンに呼びかける。


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