2 山と神隠し

side A

序 静謐

 ――今まで「無音」と呼んでいたものは、まったくもって別物だった。


 そう感じながら、たけるは一人で途方とほうに暮れていた。

 道をはずれたつもりもなく、そもそも、前には父親、後ろは母親で並んで歩いていたのに、気付けばこうして一人ぼっちで山の中という異様な状況下。

 そこに追討おいうちをかけるように、この完全なる無音だ。


 虫の声。虫の羽音。葉擦はずれ。木のきしみ。栗鼠りすなどの小動物の生活音。鳥の声。鳥の羽撃はばたき。木々を渡る風。木の実や木の葉が落ちる音。


 本来するはずのそうした音が何一つない。

 まるで、この場にたけるしかいないかのように、たける起因の音――こうして立ち尽くしているだけなら、自分の呼吸の音と、鼓動の音しかしないのだ。


 見上げた空は生い茂った木の葉のはるか上。葉の隙間すきまからその初夏特有のややこっくりとした青が見える。


 たとえどんなに低くとも山は山、と大学時代に登山サークルに所属していた父にこの程度の山を登るには十二分の装備を与えられていたとしても、たけるはまだ小学五年生である。

 大の大人でも、食料、水分、さらに雨具がそろっていたとして、後は獣害の恐怖がチラつくものであるし、ましてそうした不安に追討おいうちをかけるこの静謐せいひつだ。


 むしろ、こうして音を立てているたける自身が、異物であるかのように感じてしまう。

 実際、こうして音を立てれば立てるほど、この静かな空気がねっとりと自分を取り囲み、包み込んでくるように思えてならない。


 だから、たけるは自然と息をひそめて、現状を打破するためにいろいろと小学五年生なりに思考を働かせている。

 が、こういう時に不安という指向性は悪い方に転がしてくるもので。


 ふっとたけるの脳裏に浮かんだのは、母親が趣味で作成しているハーバリウムだった。

 ドライフラワーやプリザーブドフラワー――たけるからすれば同じものと思うが、母いわく製法がまるっきり違うらしい――を透明なびんに入れ、専用のオイルで満たして作るハーバリウム。


 一般的小学五年生のたけるからしてみれば、ドライフラワーもプリザーブドフラワーも、ただの「外見だけきれいになるよう枯らした花」という認識でしかない。

 だから、たけるにとって、ハーバリウムは枯れた、すなわち「死んだ花の瓶詰びんづめ」という印象だった。


 別にたけるはなんの脈絡もなく、そんなハーバリウムを思い出したわけではない。


 ――こんなにも音がしないのは、これらが全て死んでいるからではないだろうか。


 そんな考えが、頭をもたげたのだ。

 鮮やかな色のまま時を止めた植物を、ピンセットでびんの中に入れ、自分の好みの配置にセットしてオイルをそそぎ込む。時にはビー玉や貝殻などもびんの中に入れる事を、母親の横で見ていたたけるは知っている。

 そうしてびんふたをしめた後、ハーバリウムはただ飾られるだけの存在になる。

 母がそうして増やしたハーバリウムをたけるはたくさん見ていた。

 だから、自然とそんな考えが思い浮かんだのだ。


 この重苦しい空気はそうしてびんを満たすオイルではないのか。自分を囲んでいる木は、そういう全て死んだものなのではないか。

 ――そして、自分はただそれらを引き立てるために入れられたビー玉や貝殻のような異物なのではないか。

 こうして立ち尽くす自分を、何者かがびん硝子がらす越しにのぞいて、ご満悦まんえつな表情を浮かべているのではないか。


 自然と浅くなった呼吸がかすかな音を乗せる。

 自分が勝手に思っただけなのに、そこから湧き上がる恐怖が振り払えず、ふくらんで、押しつぶされて、目の前がゆがむ。


 そうしてふくらんだ恐怖で、肺から空気が押し出されそうになった次の瞬間。

 たけるの後方の茂みから突然発された、がさがさという音が、頭の中を真っ白にかき消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る