99話 その赤は劇物

 視界が真っ暗になった。

 何かが爆発する小さな音、ガラスが地面に落ちて割れる音が耳に届く。女の子の悲鳴が聞こえる。

 覆う様にニアギスが庇ってくれたお陰で、私には怪我一つない。

 でも、彼は無事じゃない。     

         

「ニアギス……!?」


 周囲から何かが焦げる臭いと、腐った卵の様な異臭がする。

 血の匂いがする。

 試験管は薬品を入れるので、ある程度の衝撃を耐えられるように作られている。人間の体にぶつかったからって、そう簡単に割れない。

 あの爆発音は、試験管を割る為のものだった。


「緊急退避します」


 苦し気に、でも平静を保とうとするニアギスの言葉に私は頷き、目を閉じた。

 一瞬身体が浮いたような気がした。


「手荒な真似をしてしまい、申し訳ありません」


 ゆっくりとニアギスの身体私から離れる。

 今、耳に届くのは、風に揺れる葉のこすれ合う音と小鳥のさえずりだ。


「謝らないで。それより……」


 私は瞼を開こうとした、ニアギスの手に覆われる。


「今の私の状態は、お嬢様には刺激が強すぎます。少々お待ちください」

「う、うん。わかった。手当が終わるまで、待ってる」


 先程に比べて、ニアギスの声が安定している。大丈夫だと信じながら、私は自分の手で目を覆った。

 血の匂いはまだ強い。ガラスの破片が刺さり、怪我をしたとは到底考えられない。

皮膚が溶けてしまったのだろうか。


『……手伝おうか?』

「お気遣いありがとうございます。この程度でしたら私一人で対処できます。ただ、回復魔術に集中する為、身動きが取れません。周囲の警戒をお願いしても、よろしいでしょうか?」

『わかった。周囲に結界を張りつつ、見て回って来る』


 レフィードの気配が、離れていく。心配そうな声音を聞く限り、ニアギスの負傷部位は大きそうだ。


 あの赤い液体で、ニアギスが負傷したのは間違いない。


 赤となれば負の想念を連想するが、あれは内部から精神を侵食し崩壊させるので、手法が異なっている。

 魔物の毒腺から抽出したものとは考え難い。彼等の毒は、動物と同じ神経毒が主流だ。最も有力なのは、蜘蛛と同じ生態の鋏角類の魔物が出す消化液。神経毒を獲物に注入し麻痺させ、さらに消化液で体内をドロドロに溶かし、吸い出す様に捕食する。けれど、消化液だけを取り出す事は不可能だ。骨を持たない彼らを倒して取り出そうとした場合、もれなく体液と混ざるからだ。

 仮に魔物の捕獲や人工飼育するにしても、シャーナさん達の事件、さらに兄様の事件もあり、国の目がより厳しくなっている。

 なので、今回の赤い液体は魔物由来ではなく、人間が精製した劇薬であると考えられる。

 それ相応の知識と技術、徹底した保管が必要なので、一人では困難だ。ニアギス達の目を掻い潜るとなれば、組織的な犯行であるのが伺える。けれど、今回は余りにも大胆だ。

 兄様の事件とは逆に、多数の目撃者と被害者を出させ、こちらの不安を煽ろうとしている。

 収拾をつけようにも新聞沙汰になるし、貴族が被害に遭ったとなれば噂話とスキャンダル大好きな社交界は、この話で持ち切りになるだろう。

 次期王妃が来店したお店の周囲で、薬物テロ事件発生。

 犯人はシャーナさんやアーダイン公爵家を良く思っていないか、エレウスキー商会の成功を妬む勢力だ。


「お待たせしました」


 考えを巡らせていると、ニアギスが手当てを終えた。


「ニアギス、だ、いじょうぶ、じゃない……!!」


 どこかの森の中、私はニアギスの状態を見て、驚き、声が上手く出なかった。

 脱臼や骨折する様な衝撃が与えられていない筈なのに、布で固定された右腕。捨て置かれている紺色の上着は右半分焼けた様に無くなり、同じ状態の白いはずのシャツはほとんど赤黒く染まっている。

 新しいシャツに着替えたニアギスの顔は、右半分は炎症し、爛れている。髪の毛の一部も溶けたのか、頭に巻いた布で隠されている。


 至る所で回復魔術が発動しているから、少しずつ治っているけど、どういう状況!?

 あの赤い液体は、本当になに!?


「このような事態になってしまい、申し訳ありません」

「そ、そんなことないって! あ、謝る必要なんて、どこにもないよ! 私が無事なのは、ニアギスのお陰なんだから!」


 生きているだけでも、幸運な状況では……??

 いつもの様に微笑んでいるニアギスではあるが、顔色は青白くてかなり悪い。ふらついている様子は無いが、失血量が多すぎる。かなり危険だ。


「レフィードが戻ってくるまで、安静にして」

「お言葉に甘えさせていただきます」


 そう言って、ニアギスは木にもたれ掛かった。

 鉄分やビタミンの豊富な薬草が、この周りに自生していないかな……


「う、腕の状態は?」

「幸い骨が繋がっていますので、治りは比較的早いですね。動かす程度なら一時間、使い物になるのは二時間ほど必要です」


 ほ、骨??? 幸い繋がって??

 えっ、もしかして、皮膚どころか、筋肉が溶けたりしてる……?

 ニアギスどういう神経……あ、無くなってるかもで、え、えええ???


「今回は厄介な事態となりました」


 混乱する私をよそに、ニアギスは至って冷静に話す。どこか慣れている様にさえ見る。

 ……公爵家を狙った犯行って、相当危険なのが多いのかな?

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