第13話 欲求

 彼女の声の質がまたもや変わり、普段のおっとりとしたものから一転し、オレが恐怖を感じるものに変わる。鬼気迫る装いが、オレを追い詰めていた。

 その様子は明らかに普通ではなく、ただならぬ事情があることを物語っていた。

 オレ達の間を吹き抜ける風が二人の髪を揺らし、沈黙をわずかに彩っている。



「ごめんなさい。変なことを言っちゃって」


 花崎さんの声が元に戻り、張り詰めた空気が弛緩する。


「い、いや……別に大丈夫だよ」


 花崎さんの豹変ぶりに、オレは驚きを隠せないでいた。しかし、彼女が謝ってきた以上、こちらからわざわざ踏み込むことはできないだろう。

 花崎さんはオレの怯えた視線に気づいたらしく、申し訳なさそうな顔をした。


「……そうだよね。橘くん怖いよね。ごめんね」

「花崎さん、何か悩みでもあるの? あるならどんなに些細なことでも聞くけど」

「ううん、大したことじゃないんだ」


 花崎さんは力なく微笑む。その表情からは悲壮感が漂っており、まるで死期を悟った病人のようであった。


「花崎さん、オレは花崎さんの力になりたいんだ。何か悩んでいるなら教えて欲しい」

「……キミに言う程のことじゃないからさ。本当に瑣末なことなんだよ」


 頑なに拒む花崎さんの心の壁は岩盤にも引けを取らない厚さであり、そう簡単にはオレを受け入れてくれない。

 悪戦苦闘しているうちに、良心がオレに語り掛けてくる。あまりしつこいとかえって逆効果だと、もう一人のオレが説教をかます。

 花崎さんは見るからに、オレに自分の張ったテリトリーへ踏み込んで欲しくないように思える。これ以上の詮索は彼女を傷付けることになるのではないだろうか。


「わかった。もう聞かない」

「ありがとう」

「でも、困ったことがあったらいつでも言って欲しい」

「ふふっ、橘くんはやっぱり優しいね」

「花崎さんだって同じくらい優しかったじゃないか。オレはその優しさに助けられたんだぜ?」

「そっか。なら、わたしもキミの助けになれてるんだね」


 花崎さんは嬉しそうに笑う。その笑顔は空でさんさんと輝く太陽の光を浴び、一層眩く映った。頭の数値は40を超えている。

 彼女はこれまでに引き続き、明らかに一人分ではない重箱を持参しており、それをオレに手渡してくる。


「はいこれ。キミの口に合うように作ってきたから」

「ありがとう。いつも悪いね」

「気にしないで。好きでやってることだから」


 弁当を受け取り、オレたちは手を合わせる。生憎と妹が作った弁当があるわけだが、花崎さんはそれを見るなりやたらと欲しがってきた。

 この時、数値が2くらい下がる。もはやこの数字がどんなものを意味しているのか、分からなくなってきている。しかしながらこの低下分はオレの弁当を食べるうちに戻っていく。


「妹さんってあんなに橘くんのこと嫌ってそうなのに、お弁当は毎日作ってるよね」


 やっぱりそこについて考えちゃうよな。オレだってすごく違和感を覚えるところであり、正直に言えば今すぐやめさせたいと思っている。


「まあ、あいつは妙にツンデレというか……なんていうか……その……照れ隠しだと思う」


 花崎さんに嘘をつくのは忍びないが、仕方がない。妹がオレを嫌っている、なんて言ったら花崎さんの性格上本気で心配してきそうだし、それは避けたいのだ。

 朝みたいなことになったら大変だ。これからは花崎さんと怜をかち合わせないように気を付ける必要もあるだろう。今回の花崎さんのお弁当には小さな餃子やエビチリ、クラゲサラダに焼売といった中華がぎゅっと詰まっている。


「そっか。一応仲良いんだね」


 なぜか、花崎さんの頭上の数字が1下がる。


「うんまあ、そこそこいい方だとは思うんだけど……」

「でも、わたしはちょっと憧れるかな」


 花崎さんの表情がほんの少しだけ寂しげなものに変わる。どうやら羨望の眼差しを向ける。

 しかし、オレは彼女の言葉の意味がいまいち理解できず、首を傾げるしかなかった。花崎さんには姉がいるので、兄弟愛のなんたるやは分かるはず。羨ましがる理由が見えて来ない。

 そんなオレを見て花崎さんはくすりと笑みを漏らすと、こう続ける。


「わたしもいつかお兄ちゃんができるといいなって思ったの」


 花崎さんの口から飛び出した爆弾発言により、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。


「……え!? ど、どういうこと……?」

「あっ、別に深い意味はないから。ただ単純にそう思っているだけで、特に他意はないの」

「そ、そうなんだ」

「うん」


 花崎さんは平静を装っていたが、頬がわずかに赤くなっている。

 花崎さんはどうして急にこんなことを言い出したんだろう。おかげでお弁当の余韻が全部吹き飛んでしまった。


「もちろんお姉ちゃんのことは好きだよ。でも、それが男性の肉親を求めてはいけないことにはならないでしょう?」


 彼女の家の事情なのか、その願いの力は生半可なものではないことが伝わってくる。

 いつの間にか数値は50を超えていた。今日は互いに腹を割って話したから、その影響だろうか。

 オレは花崎さんの言うことに共感する部分があった。オレは今まで異性に対して、どこか壁のようなものを感じていた。それはおそらく妹も同じで、お互いに無意識のうちに相手との間に距離を作っていたと思う。

 妹はオレのことを毛嫌いしているが、それでも同じ屋根の下で暮らしていれば最低限の会話くらいはある。罵倒されたくないから受け身だけど。

 だが、花崎さんに対しては自然とオレの方から距離を詰めていった。それも花崎さんが歩み寄ってくれたからだ。

 花崎さんはオレにとっての太陽のような存在であり、もし彼女がいなかったらオレの学校生活はきっと真っ暗だったに違いない。

 人当たりが良い人が一人でもいるだけで、こうも環境が変わるものなんだな。その事実は花崎さんという人間の大きさを物語っていた。

 オレが黙りこくってしまったせいか、花崎さんは自分の言葉を補足するように語り始める。


「わたしね、実は昔は男の子みたいな性格をしてたの。それで周りからはずっと女の子らしくしろって言われ続けて来たんだ」


 花崎さんの言葉はオレの胸に深く突き刺さった。

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