第12話 夢の中の子
柔らかな日差し。新緑の葉が煌めき、若草色の野草が一面に広がる。所々に、小さな花を咲かせる草花。佇むのは、終わりが見えない草原。
アサギは、だだっ広い草原を一人で歩いていた。
歩いているといっても、足裏で地面を踏みつける感覚は無い。滑るように、視界だけがスルスルと動く。
(あぁ、夢の中だ……)
不意に、これは夢だと認識できる瞬間がある。
意識はあっても夢に干渉することはできず、自分の夢なのに、ただ眺めることしかできない。
楽しく、いい夢なら大歓迎なのだが、悪い夢ならば早く覚めてほしくなってしまう。
(これは、どんな夢かしら)
季節は春の頃だろうか。色にも光にも、生命の息吹を感じる。とてもキラキラしていて、存在する全てが初々しい。遭遇する初めてに、心躍らせる感覚。
ふと気が付けば、いつからだろう……小さな子供が草花を摘む姿がある。
顔は見えない。後ろ姿しか見えない幼い子供。年の頃は、三つか四つ。性別も分からない。
それなのに、あれは誰なのかアサギは知っている。
夢の中のアサギは、知らないはずなのに知っている子供の名を呼んだ。
ーーケイ
名を呼ばれ、ケイは花を摘むことをやめて立ち上がる。振り向くけれど、やはり顔は見えない。性別も分からない。それなのに、自分の子であるという確信はある。
アサギは夢の中で、駆けてくる愛しい我が子を抱き締めた。
(えっ! 私の子?)
意識が急浮上し、夢が消える。
パチリと勢いよく目を開けると、心配そうな皇子の顔が一番に飛び込んできた。
驚いているのか、皇子も言葉を発さない。アサギも夫から視線を逸らさぬままだ。互いに、黙ってジッと見詰め合っている。
(か、顔が近い)
互いの鼻先まで、親指一本分の距離があるだろうか。
意識をしてしまうと、だんだん恥ずかしくなってきた。
寝床に横たわっているアサギには、顔を引いて距離を取る、ということができない。顔を背けては、あらぬ誤解を招くかも。
(困った……)
どうやら、皇子も身を引く気はなさそうだ。
(このまま話すしかないか)
目が覚めてから今に至るまでの思考は、数秒といったところだろう。
言葉を発するべく、スゥッと静かに息を吸い込んだ。
「……皇子様。どうなさったのです?」
アサギが声をかけると、皇子は顔面をクシャリと歪めた。まるで、泣く寸前の子供のようだ。
(子供……)
夢の中で、アサギは母になっていた。自分が母になった姿など、全く想像もつかない。
「どうなさったのではない! まったく……心配させおって」
よく分からない、という顔をしていると、離れた所で同じく心配そうな表情を浮かべているマツとチヨの姿を見留めた。不安を共有しているのか、分散させているのか、互いに手を握り寄り添い合っている。
アサギは眠ってしまっただけなのに、なにか心配をかけるようなことがあっただろうか。
心当たりは、目眩を起こしたことぐらい。みんなが心配する原因はそれだと、アサギは結論付けることにした。
「ごめんなさい。心配をおかけして……」
「まったくだ。眠ったまま目を覚まさぬから、魂が抜けてしまったのだろうかと」
「魂は、抜けていませんよ」
夢なら見ていたけどね……と胸中で付け加えて苦笑すると、皇子はアサギを抱き起こした。グラリと目が回り、脳が揺れているようだ。目が開けていられない。
「皇子様、ダメです。血の気が足らぬのでしょう。お気持ちはお察し致しまするが、お后様は横にならせてくださいませ」
聞き覚えのある声に、アサギは薄く目を開ける。人物を確認すると、あっ……と声が漏れ出た。
「婆様」
呟くように言葉を紡ぐと、婆(ばば)はシワだらけの顔をクシャリと歪めた。クシャクシャの笑顔は、人のよさと優しさがにじみ出ていて好感が持てる。アサギは子供の頃から、婆に深く信頼を寄せていた。
婆は、アサギ達にとっての先生でもある。小さいときから、いろいろな生活の知恵を教えてもらっていた。
「なぜ、婆様が?」
「信頼があり分かる者を呼び寄せたら、かの老婆が使わされたのだ」
皇子が合図を送ると、婆はスススとアサギの傍に寄ってくる。皇子はアサギを寝床に横たわらせると婆に場所を譲った。婆はアサギの頭元へ腰を下ろし、恭しく頭を下げる。
このような対応を婆からされると、どうしていいのか分からなくなってしまう。立場がそうさせるのは理解していても、どこか寂しい。
アサギから伺える婆の顔は、慈しんでいるのか悲しんでいるのか、憂いを帯びたとまではいわないけれど、複雑な表情を浮かべている。
心に、なにか葛藤があるのだろうか。
「婆様……?」
アサギの不安をよそに、婆はアサギの腹を一瞥すると、微笑を浮かべた。
「おめでとうございます。ご懐妊でございます」
「えっ……?」
告げられた言葉に、理解が追いつかない。導かれるように、自分の腹へ無意識に手が伸びる。
(私のお腹の中に……命が宿っている?)
にわかには信じられない。
まさか、目覚める直前に見ていた夢が正夢だったとは……。
あの夢は、神のお告げか虫の知らせか。
(どうしよう。嬉しいのに……怖い)
里では婆に習いながら、何度も出産の手伝いをしてきた。それはアサギに限らず、里の女衆が総出で手伝っていたのだが……お産は、戦場だ。
陣痛の痛みに耐える母の叫びに近い声が、鮮明に脳裏に蘇る。
産みの苦しみを乗り越えられるか、自信が無い。痛いのは嫌いだ。
でも、不安はそれだけではない。
必ずしも、生きて子供が生まれてくるとも限らないし、産み終えた母が命を落とすこともある。
健康で元気に生まれてくる子と、そうではない子も何人と見てきた。我が子に乳を与えることなく息を引き取った母親も、何人と見てきたのだ。
(私は、ちゃんとできる……?)
命懸けの出産。授かった命を無事に腹の中で育み、産んで、元気に育てることができるだろうか。
責任が重い。重大だ。
アサギは、手が細かく震えていることに気付く。きっと行き場をなくしている不安や恐怖が、ここに現れているのだろう。
震える手をギュッと握り締め、皇子に顔を向けた。
皇子は瞳を潤ませ、アサギの手に自らの手を重ねる。そして、ありがとう、と呟いた。
「夢に、一歩……近付いた」
皇子の夢は、ヤマト族とイヅモ族が共に暮らしていけるようになること。そのための第一歩が、皇子とアサギが仲睦まじくなることであると言っていた。
そして授かった、新たな命。
ヤマト族の父とイヅモ族の母を持つ子が、十月十日後に生まれてくる。
そう、この子は……希望の子だ。
(どうしよう)
嬉しいのに、恐い。
ヤマト族とイヅモ族の血が混じるこの子は、イヅモ族のみんなに受け入れてもらえるだろうか。反対に、ヤマト族の人達にも、この子は受け入れてもらえるだろうか……。
変な言い方をすれば、純粋なイヅモ族でもヤマト族でもない、中途半端な身の上で生まれてくるのだ。虐められたり、しないだろうか。
(この子は……幸せに生きていける?)
夢で見た子供からは、抱き締めたときに、母であるアサギが大好きだという気持ちが伝わってきた。
(私が、護ろう……なにがあっても)
周囲からの風当たりが厳しかったとしても、母であるアサギが目一杯の愛情を注いで幸せを感じられる子に育てよう。
そうすれば、愛されることを知っている子に育つだろう。
まずは、この子を無事に産まなければならない。
アサギは、皇子に覚悟を決めた笑みを向けた。
「願っていてくださいませ。無事に、生まれてくるように……と」
「あぁ、願おう。巫女に祈祷もさせよう。できることは、すべてやるぞ!」
皇子は婆に向き直る。
「そなたには、后の世話を頼みたい。なにかあれば、侍女であるマツとチヨに遠慮なく申せ。分かったな」
「はい。畏まりましてございます」
婆は恭しく頭を下げた。
皇子は、マツとチヨにも向き直る。
「そなた達も、これまで以上に精一杯仕えてやってくれ」
「承知致しました」
マツとチヨも恭しく頭を下げ、アサギにチラリと視線を寄越すと、口元に笑みを浮かべた。
幼馴染みの二人は、アサギが子を授かったことを喜んでくれている。
(大丈夫。なんとかなるわ……)
アサギは、新たな命が宿っている自分の腹に手を当てた。
(元気に、健康に育ってね。あなたに会える日を楽しみにしているわ)
そうだ、とアサギは閃く。
(この子の名前は、ケイにしよう)
性別は分からないけれど、夢の中で呼んでいた子供の名前。
(少し落ち着いたら、皇子に提案してみよう)
受け入れてもらえるといいな……と淡い期待を胸に抱きながら、眠気に負けたアサギは、再び眠りにつくべく静かに目蓋を閉じるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます