第139話 美月再起録 春 side:美月



 事件の後、私はすぐに動物病院へと駆けこんだ。

 幸い、ヨンキは軽い打身と診断されて、翌日には元気に走り回っていた。

 この子が無事で、本当に良かった。


「ワン!」


 私も大きな怪我はなく、すぐに日常へ戻ることができた。

 むしろ、時折フラッシュバックしていたあの日の記憶も、今ではまったく見なくなった。

 ただその代わりに、違う光景が……。


『美月さんが助けを呼んだら、僕が必ず助けに来るって、約束したじゃないですか』

『大丈夫ですか、お姉さん』


「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」


 私は1人ベッドで身悶える。

 両手で覆っている顔は火照っていて、リンゴのように赤く染まっていた。

 私……私……聖君のことを……好きになってしまったみたい。


「何を考えているの私! 聖君はまだ9歳なのよ!」


 そんなの、ショタコンと言われてもしょうがないじゃない!

 どう考えても犯罪よ!


 私とは10歳以上歳が離れている。

 歳差婚なんて無理に決まって……あっ、芸能人だと結構いるんだ……。

 えっ、20歳以上がアリなら――


「って、そうじゃないでしょ!」


 お母さんに聞かれないように、声を潜めながら叫ぶ。

 布団をかぶると、またあの時の光景が。

 普段は「美月お姉さん」なのに、あの時だけ「美月さん」だったっけ。

 その時の表情も、なんだか大人っぽくて……。


「ぅぅぅぅ」


 身悶えしたせいでベッドが軋んだ。

 

「誰にも相談できない!」


 もしもお母さんに相談したら、ただでさえ心労をかけているのに、さらに余計な心配をかけてしまう。

 パタリと倒れるお母さんの姿が目に浮かぶ。

 お父さんは泣きながら怒るかな。

 そして、家族の理解を得られなかった私達は駆け落ちするの。

 追手の来ない田舎で静かに暮らし、3人の子供に恵まれて……。

 って、私、何を想像しているの!?


 ダメ! これ以上考えちゃダメ!

 ベッドに居たら変な事ばっかり考えちゃう。

 私は気持ちを切り替えるため、ベッドから跳び起きた。


「さっきからうろうろして、落ち着きないわねぇ。どうかしたの?」


「ううん。何でもないよ」


 リビングを周回する私に、お母さんが迷惑そうに尋ねる。

 お風呂に入って、クローゼットからお気に入りの服を引っ張り出して、バッチリメイクまでしちゃったけど、何もない。

 これから聖君がお祓いに来ることも関係ない。

 全部終わってから「私は何してるんだろう」と自己嫌悪に陥ったのだって、何にも関係ないから。


 ピンポーン


 来た!

 私は寝室に移動して、お母さんが聖君を連れて来るのを待つ。

 すぐに寝室のドアがノックされ、私は彼を迎え入れた。


「美月お姉さん、こんにちは。もう大丈夫なの?」


「…………」


「美月お姉さん?」


「う、うん、大丈夫。座って」


 聖君の顔を見た途端、胸が高鳴った。

 これは……かなり重症かも。


「美月お姉さん、陰気はほとんど払ったけど、悪いことが起こらないわけじゃないから、お仕事とかは休んでもいいからね」


 あぁ、聖君が私を心配してくれてる。


「大丈夫。聖君がいれば、私なんでもできる気がする」


「そ、そう? 無理しないでね」


 聖君は私の奇行を気にした様子もなく、いつも通りお祓いをして、少しお話しして、帰って行った。

 1人残された部屋で、私は言葉を漏らす。


「寂しい……って思っちゃってる」


 口に出したら余計に寂しくなってきた。

 ベッドに潜り込み、目を瞑る――少し前まで、これは嫌なことを思い出しての逃避行動だった。

 まさか、いけない思いを抱えてベッドに逃げ込むことになるなんて、思いもよらなかった。

 でも、これくらい許してほしい。

 こんなに人を好きになったのなんて、初恋以来なんだから。


 それからまた月日が流れて、私はようやく落ち着きを取り戻した。

 今日も聖君の顔を見て胸が高鳴るけれど、初恋のような暴走はしない。

 ただ、一緒にいると、熾火おきびのようにジワリジワリと胸を温めてくれる。

 むしろ重症化したかもしれないけれど、少なくとも現実は見えてきた。


「先月から変わってない。4のまま安定してる」


 慣れた手つきで器具を扱う聖君が呟く。

 可愛くて、頭が良くて、優しくて、仕事熱心で、光り輝いている。

 まだ子供なのに、どんな男性よりも頼りになる人。

 きっと将来、聖君は凄い人になる。

 私なんかじゃ手の届かないくらい、凄い人に。


「うん、美月お姉さん。もう大丈夫だよ。おめでとう」


「ありがとう」


 両思いになるとか、お付き合いするとか、結婚するなんて夢は見ない。

 ただ、この子を支えられる人間になれたら、それは素敵なことだと思う。

 もしもこの先で機会があったなら、恩返ししたい。

 たくさんの勇気をくれた君に、いつか、必ず。


「聖君のおかげよ。本当にありがとう。……本当に、ありがとう」


 ただ、この想いが消えるわけじゃない。

 聖君とのお別れを済ませた私は、寝室で1人、彼が信仰する女神様に祈った。


智夫雄張之冨合ちふぉちょうのふあい様、愚かな私をお許しください」



 ~~~



 聖君のおかげで人間不信はかなり緩和したけれど、人と接触しない方が安心するのは変わらなかった。

 それは、私の人生経験から得た生存本能のようなもの。

 ストーカーの男が私に目を付けたきっかけが、落としたスマホを拾って渡してあげた時だと知って、なおのこと人との関わりを厳選するようになった。


 だからかな、外出する時にマスクを着けると安心するのは。

 顔を隠すと、他人の視線から守られているような気がする。

 お母さんの提案でつけ始めた結果、こうしてヨンキの散歩をするのも気が楽になった。


 それに、メイクの時間が短くなるのも良い。


「ワン!」


 ヨンキも早く外に出られて嬉しそう。

 いつものお散歩コースを歩いていると、私は向かいから見知った顔の女性が歩いてくることに気が付いた。

 その女性は私に気付くも、会釈して通り過ぎようとする。

 私が人を避けていると知っている、命の恩人さんだから。


「あの!」


「……何か?」


 思わず呼び止めてしまった。

 ここからどうすべきか、私は決めかねている。


「この間はお礼も言えずに、失礼しました。改めて、あの時は通報してくださって、本当にありがとうございました」


「気にしないで。貴女の元気な姿を見られて良かったわ」


 恩人の女性はそれだけ返して歩き出す。

 私がどこか無理をしていることに気づかれたのかも。

 でも、もしもここで立ち止まったら、聖君に合わす顔がない。


「……あの!」


「ん?」


 どこかの喫茶店で奢らせてくださいとか、お食事しましょうとか、以前なら言えた言葉が、まだすんなり出てこない。

 何かお礼をしたいと伝えることすらできない私に、女性は優しい笑みを向けた。


「息子の習い事が終わるから、その迎えにいくところなの。良かったら途中まで、話し相手になってくれない?」


「はい!」


 結局、また好意に甘えてしまった。

 そんな自分に自己嫌悪しそうになる。

 でも、聖君が言っていた。


『そんなに自分を嫌いにならないで。自分のことを褒めてあげると、悪いものも寄ってこないから。……ってお父さん言ってた』


 だから、一歩踏み出すことはできなくても、一歩も引かなかった自分を褒めてみようと思う。

 私は意を決して尋ねた。

 きっとこの繋がりは、悪いものではないから。


「お子さんはどんな習い事を?」


「絵を習っているの」


「絵が描けるんですね。すごいです」


 絵画教室の前まで、私たちはしばらくお話しすることができた。

 恩人の女性の名前は秋子さんと言って、息子さんと同じく絵を描くのが趣味だそう。

 ジャンルは違うけれど、創作活動をしている私たちは不思議と話が合った。


「……ありがとう」


「いま何か言った?」


「いえ、何も。実は私も小説を――」


 新しい出会いと共に、私は新しい人生を歩み始める。

 聖君から定期購入契約したもらった御守りを胸に。


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