第74話 小学1年生の夏休み



 終業式を終え、待望の夏休みが始まった。

 幼稚園ではあまり感じられなかったが、小学校の夏休みには解放感がある。

 義務教育という拘束時間があるからこそ、夏休みの特別さが際立つのだ。

 一日中陰陽術の練習ができる環境の何と素晴らしいことか。


「おかーさん、つまんない」


 ただ、俺たちの世話が増えるという点で、お母様にとって面倒な期間でもある。

 俺は儀式の練習でブンブン振り回していた御幣をテーブルに置き、優也に声をかけた。


「お母さんは家事で忙しいから、僕と遊ぼう」


「いいですよ、聖。練習を続けてください。優也は私と自転車の練習をしましょうね」


「うん!」


 お母様は嫌な顔ひとつせず、優也と夏の空の下へ出て行く。

 子供ははしゃいでいるうちに暑さも忘れてしまうが、大人にとっては耐え難いものだ。

 あとで飲み物でも持って行こう。


 俺はお母様の優しさに甘え、再び儀式の練習に入った。


 御幣を一定のリズムで左右に振ったり、そのリズムに合わせて呪文を唱えたり、円を描くような足運びを繰り返す。

 自分の感覚としては良い感じだ。


「どんな具合かな」


 俺はテーブルの上のスマホを手に取った。

 誰かに見てもらわずとも、録画機能でお手軽に確認できる。

 親父がお手本動画を残してくれているから、見比べることも可能だ。

 いまや陰陽術の練習に欠かせないアイテムとなっている。早速再生。


「う~ん。なんか違う」


 客観的に評価するならば、辛うじて及第点といったところだ。

 基本的な動作は合っているのに、なんというか……キレがない?

 親父のお手本は迷いがなく、シュッとカッコイイ感じなのだが、俺のはへにょへにょしている。


「練習の差か」


 前世ではダンスなんて碌に学んでこなかった。

 儀式の動きはダンスともまた違い、変わったリズムで決まった所作を求められる。

 筆遣い同様、一から練習して覚えるほかあるまい。


 再び練習に入ると、庭から声が聞こえてきた。


「おかーさん、はなさないでね!」


「はい、大丈夫ですよ。まっすぐ前を見てください」


「はなしちゃダメだからね!」


 優也が自転車の練習をしている声だ。

 気になって外を覗いてみると、補助輪なしの自転車に恐々乗る優也を、お母様が後ろから支えていた。


 優也が乗っている自転車は、俺の5歳の誕生日に祖母から贈られた品である。

 当然俺は乗れるので、早々に弟へお下がりした。


「1人で自転車に乗れていますよ」


「えっ、おかーさん手はなしちゃダメ!」


 直後、自転車の倒れる音がした。

 どうやって止まればいいのか分からず、優也が自転車から離脱してしまったようだ。


「怪我はありませんか? ……大丈夫ですね。あと少しで1人でも乗れそうですね」


「うぅ~。うん」


 お母様に裏切られたような気持ちを抱きつつ、1人で乗れたことを喜んでいる複雑な心境の弟。

 何とも微笑ましい光景に、俺も混ざりたくなってしまった。陰陽術の練習をする時間はいくらでもあることだし、今しか過ごせない時間を優先してもいいだろう。


 触手を使って冷蔵庫から麦茶を取り出し、俺は夏の太陽の下へ向かうのだった。



~~~



 7月は陰陽術の練習と家族団欒であっという間に過ぎ去っていった。


 今日は8月1日。

 一週間前に親父から指定された、御剣家見学の日である。


 山道を走ること1時間。

 社有車の助手席から降りた俺は、「運転お疲れ様」と親父を労いつつ建物へ向かう。


 5階建てのビルは相変わらず質素な外観で、内装は綺麗なままだった。

 受付へ顔を出すと、若い女性が微笑ましいものをみつけたような目でこちらを見る。


「こんにちは。君が聖君かな」


「はい。峡部 聖です。本日はお世話になります」


「ちゃんと挨拶できてえらいね」


 ほんの少しの屈辱感と、デレデレしてしまいそうな男の本能が湧き上がる。

 そうだった、今の俺は小学1年生。微笑ましさ全開の子供だった。

 そりゃあこんな対応もされる。


「峡部さん、おはようございます。見学許可証の受け取りですね」


「よろしくお願いします」


 親父が書類を受け取り、事務手続きを進めていく。

 背伸びしながら親父の手元を覗き込むと、以前と同じ免責確認書類にサインしていた。

 果たして、今回その危険性を負うのは誰なのか……俺でしょうね。

 ただ、訓練中に怪我をすることについて、実はそれほど心配していない。


 子供には退屈な時間だと思ったのか、受付さんが俺に話しかけてくれる。


「うちには優秀なお医者様がいるから、安心して訓練に参加してきてね」


 『武家の医者は優秀』あの日籾さんが言っていた言葉だ。

 親父曰く、内気を使った特殊な治療に現代医療技術を融合した、日本一の医者だとか。

 歩くだけで辛そうだった親父を、わずか1時間で日常生活に支障がないレベルまで治した。その手腕から、俺はお医者様に一定の信頼を抱いている。


「どんな人ですか?」


「凄く紳士的で真面目なお爺さん。たくさんの人を助けてきた優秀なお医者様だから、聖君が膝を擦りむいてもすぐに治してくれるよ」


 ほう、それは頼もしい。

 出来ることなら前世で会って、疼痛緩和の手術をお願いしたかった。


 子供好きな受付さんに見送られながら、俺たちはビルを後にした。

 次に向かう先は御剣家の母家おもやだ。

 再び車に乗って移動するのかと思いきや、親父はなぜか車と反対方向へ進んでいく。


「お父さん、車は?」


「ここからは走っていく」


 ついてきなさいと告げた親父は、少しずつペースを上げながら山道を走り出した。

 俺は慌ててその後を追う。

 俺がついて行けるペースをつかんだあたりで、親父が説明を始める。


「通勤バスから降りた後、ビルで受付を済ませた者からこの山道を走る。御剣家の仕事をこなすには体力が必要だからだ。訓練は既に始まっている。辛くなったら言いなさい。背負う」


 親父の細い身体に負荷をかけたら折れてしまいそうだ。

 そうでなくとも、親父に頼るのはなんか嫌だ。同じ男として負けたくない。




「……疲れたら言いなさい」


「大丈夫だよ」




「そろそろ背負うか?」


「全然平気」




 走る途中、親父は何度もリタイアをそそのかしてきた。

 普通の子供だったらを上げるまで頑張るかもしれないが、俺は違う。

 前世で老化を経験しているため、ほどほどに鍛えることが重要だと知っている。

 運動部だった同級生の怪我然り、プロ野球選手の故障然り、若くして取り返しのつかない大怪我をする可能性は十分ある。

 小学1年生にして人体の限界を知っている俺は、その上でまだ問題ないと判断した。


「無理はするな。怪我をする前に――」


「お父さん」


 俺は走りながら親父の言葉を遮った。

 全く、こんなところで言わせないでほしい。


「知ってるでしょ? 僕そんなにやわじゃないよ」


「……そうだったな」


 霊力のおかげか、前世と比べて持久力や回復力が格段に高い。

 これは身体強化の効果とはまた別で、生まれながらに霊力を保有する陰陽師の特性に近いようだ。

 確定事項として記載されている書物はないのだが、前世で霊力を持っていなかった俺の経験からして、明らかに霊力が何らかの作用をもたらしている。

 加奈ちゃんも同年代と比べて足が速いし、術を使わずとも、陰陽師は霊力によって身体能力が増強されているのかもしれない。


 俺はその上に身体強化の重ね掛けをしている状態だ。

 ちょっと山道を走る程度では肉体の限界に及ばない。

 親父はそのことをちゃんと知っている。


 ……だから心配する必要ないのに。変なところで過保護なんだから。


 見る者が見れば身体強化はバレてしまうらしいが、明言するのと推察されるのでは意味が違う。

 こんなところで話していい内容じゃない。

 

「お父さんが僕の歩幅に合わせてくれてるから大丈夫」


「……そうか」


 たとえ息は上がっても、そこからずっと走り続けられる。それが霊力を活力のようなものと表現した理由だ。

 例えるなら、外付けの燃料タンクを積んでいる感じ。

 肉体が持っているスタミナはとっくに消費したのに、霊力がそれをみるみる回復させていく。


 そのおかげで、俺は親父の世話になることなく目的地まで駆け抜けることができた。

 母屋のある平地が見えてきたと同時、歓迎の声が飛んでくる。


「よく来たな、強の息子!」


 母屋の前で仁王立ちする、実質的なこの屋敷の主。

 先代当主、御剣みつるぎ 縁武えんぶ様のお出迎えによって、夏休みの一大イベント『武家見学会』が始まった。

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