第126話 二日目/湖の小島/俺は君の手を握り、笑って

 湖の上に流れる風は、夜になるとさらに涼しく感じられた。

 ケントは小島の上まで来て、降りる前にザッとその周りをひとッ飛びする。


 こうしてみると、小島とはいってもそれなりに大きい。

 一周、歩けば十五分くらいはかかるのではないだろうかと思えた。


 そしてケントは、最初に遠泳で来た場所に降り立つ。

 そこは小さな砂浜。よく見ると幾つか足跡が残っている。


 足跡は自分の足よりも小さい。タマキのものだろうとわかる。

 そうか、あの人の足、こんなに小さかったんだな。そう思ってしまう。


 ――そりゃそうだ、あの人、高一とはいえ女子だぞ。


 今さら過ぎる、その認識。

 ちょっと、自分で自分に笑ってしまう。


 だけど仕方がない。

 タマキに常識は通用しないのだから。


 今なら、アキラが言っていた『界隈ジャンルが違う』という言葉がよくわかる。

 250mを水上走行で走り抜ける人間を、誰も普通の女子高生とは呼ぶまい。


 そのときの光景を思い返し、また、笑いが浮かぶ。

 自分が当事者でなければ、驚いたあと腹がよじれるほど爆笑してたに違いない。


「ああ、それにしても……」


 その遠泳競争も、もうずっと前のように感じられてならない。

 やったのは、今日のことだっていうのに。


 今日一日、色んなことがあった。ありすぎた。

 この小島だって、訪れたのは今日が初めてなのに、これで来るのは何度目だ。

 夜とはいえ、そろそろ周りの景色も見慣れてしまった。


 向こうを見れば、真っすぐ先に見える、明るい光。

 そこで、アキラや真理恵達がバーベキューをしているのだろう。


 楽しそうだが、邪魔が入らないというのであれば今がタイミングとして最適だ。

 そう思いながら湖の向こうの光を眺めていると、音がした。


 誰かが、砂を踏みしめる音だ。

 聞こえたのはすぐ後ろ。振り向くと、そこにタマキが立っていた。


「ケントしゃん……」

「お嬢、来てくれたんですね」


 彼女の姿を見て、ケントの笑みが深まる、

 けれど、タマキの顔に笑みはなく、どこか不安げだった。


「あの、オレ……」


 ケントの方を見ず、自分の左腕を右手で抱いて、タマキは何かを言いかけた。

 しかし、ケントはそれを聞かずして、先に言った。


「お嬢、手」

「手?」


 ケントが言うと、タマキは彼を見て、特に警戒もせず右手を出してくる。

 その手に、ケントは自分の左手を重ね、キュッと握った。


「ぁ……」

「一緒に、こっちに来てください」


 驚いて硬直するタマキにそう言って、ケントは彼女の手を引っ張っていく。

 それは再現であり、再演。

 昼間の二人のやり取りを、そのまま逆転させた形での。


 ケントが、タマキを引っ張っていく。

 その顔には、昼間にはなかった優しい笑顔。タマキはそれを見つめて、


「ケントしゃん……」


 名前を呼ぶだけで、それ以上は何も言えない。

 そして二人は、岩山の裏手に回って、そこにある洞窟の中へと入っていく。


 夜ともなれば、さすがに暗い。

 しかし、少し歩くとすぐに明るくなった。今日は月が鮮やかだからだ。


「着きましたね、お嬢」

「うん……」


 ケントがそう言って笑いかけるも、タマキの表情は浮かないままだ。

 当然、彼もそれに気づいている。そして、ケントはタマキを呼ぶ。


「お嬢、空」


 右手で上を指さし、彼は見上げた。


「空?」


 つられてタマキも見上げると、そこにあるのは丸く切り取られた月と星空。

 月は、満月ではないだろうが丸く大きく、夜の真ん中に煌々と輝きを放っている。


 それを彩る星々も、街で見るよりずっと鮮明で、空を鮮やかに飾っていた。

 ケントは当然初めて見るが、タマキも「わぁ……」と感激の声を漏らしていた。


「夜にここに来るの、初めてっすか?」

「うん、初めて。すごい、綺麗……」


 ここで『君の方が綺麗だよ』は、さすがにダサいので言いはしない。代わりに、


「そうっすね。月が綺麗っすね」

「うん……」


 二人は、そこでしばし夜空に浸りながら、やがてケントが左手に力を込める。

 気づいたタマキが、ハッと弾かれたように彼を見た。


「ケント、しゃん……?」

「お嬢」


 ケントも、タマキの方を向く。

 二人は見つめ合った。ケントの心臓が、にわかにその動きを速め出す。


 だが、その瞳が映したのは、目に涙を浮かべるタマキの顔だった。

 眉間にしわが寄っていき、強く引き結ばれたその唇が、小さく震え始める。


「……どうしてです、お嬢?」


 彼女の涙に驚きはしたが、ケントは何とか冷静さを保ち、そう尋ねる。

 すると、タマキは俯いて「ダメだよ……」などと言い出す。


「ダメだよ、ケントしゃん。……オレ、そんな資格ないよ」

「何で、そう思うんです?」

「だって、オレ、気づけなかった。ケントしゃんが、苦しんでたこと……」


 堪えるのも限界で、タマキの大きな瞳から、ポロポロと涙が零れる。

 嗚咽をしないだけでも、相当頑張っているだろうに、彼女は濡れた声で続ける。


「オレだけ浮かれてた。何も知らないで、知ろうともしないで、オレだけ……!」

「お嬢……」

「そんなオレが、ケントしゃんの隣にいていいはずないよ。そんな資格、ないよ!」


 きっと、色々悩んだのだろう。その末の、この涙なのだろう。

 ケントには、それが手に取るようにわかった。


 タマキの悩みの全てを察することはできない。

 けれど、彼女が抱えている痛みは感じとることができる。こうして、手を繋いで。

 その上で、彼は言った。


「それが、どうしたんです?」

「え……」


「お嬢が俺の苦しみに気づけなかった。とは言いますけど、それをこの場で俺に伝えてくれてるってことは、今はもうそれに気づいてる、ってことですよね?」

「う、うん。だから、その、オレ……」

「じゃ、いいじゃないっすか。別にタイムリミットがあるワケじゃなし」


 逡巡を見せるタマキに、ケントは実にあっけらかんと言ってのけた。

 軽く肩をすくめる彼に、非常に深刻に悩んでいたタマキは、目をパチクリさせる。


「い、いいはずないだろ! オレ、それでケントしゃんを余計に苦しめて……!」

「俺だって、あんたを悲しませたでしょうが。お相子ですよ、お相子。っつ~かね」


「……う?」

「あんた、バカのクセに、何が『資格』ですか、似合わねぇにも程がある」

「それはさすがにひどいよッ!?」


 あまりにもド直球な罵倒に、さしものタマキも抗議をする。

 ケントはケラケラ笑って、彼女のおでこに人差し指を軽くコツン。


「いいじゃないっすか、気づいたんだから。だったら、これからそれを直していけばいいだけでしょ? それ以外に何か問題ありますか、お嬢」

「う、でも、オレ、バカだから、また、気づかないうちにケントしゃんを……」

「かもしれないですね~。で、それがどうしたんです?」


「ど、どうしたんです、って……!」

「そこもお相子。俺だって、今後、お嬢を傷つけないとも限らない」


 ケントは言う。

 すると、タマキは血相を変えてそれに反論する。


「ケントしゃんは、そんなことしないよ! オレを守ってくれるって言ったモン!」

「そのセリフ、そのまんまお嬢にお返ししますよ」


 言ったケントが、にんまり笑う。

 その反応に、タマキはギクッとなった感じで身をのけぞらせた。


「俺と一緒に強くなる。あんた、そう言いましたよね?」

「あぅ……」


「俺の隣に並んで、一緒に前に進む。とも言いましたよねぇ~?」

「ぅぅあぁぁぁ……」


 たじろぐタマキにケントはどんどん詰め寄って、そのまま、腕を回し抱きしめる。

 ギュッと、両腕で、しっかりと、力強く、でも包み込むように。


「――ぇ?」

「もう、離しませんよ、俺」


 腕の中で、タマキがしばしもがく。

 でもそれは驚きからのもので、すぐに彼女は大人しくなった。


 そして、強張っていたタマキの体から少しずつ力が抜けていくのが感じられる。

 やがておずおずと伸びてきたタマキの腕が、ケントを抱きしめ返す。


「…………」

「…………」


 二人は、無言だった。

 ここは洞窟で、虫の鳴き声も届かず、今は風の音もしない。完全な無音。


 その中に聞こえるのは、互いの息遣いと、そして高鳴る心臓の音。

 ケントにははっきりとわかった。タマキの胸から、それが強く伝わってくる。


「聞こえるよ。ケントしゃんの、心臓の音……」


 思っていたところに、これだ。

 どうしようもなく、通じ合ってしまっている。言葉を交わすまでもなく。

 それが面白くて、そして嬉しい。彼女との間に繋がりを感じる。


「俺は……」


 ケントが、口を開いた。


「お嬢を、娘みたいに思ってました。今は高校生でも、俺の中でのお嬢のイメージは、ずっと俺が死んだときの、あの小さな女の子でした。失礼な話ですけど……」

「うん、何となく、わかってた。オレ、子供扱いされてるな、って……」


 ああ、やっぱり見透かされていた。

 ケントは、タマキを抱きしめながらも、その顔に軽く苦笑を浮かべる。


「でも、いいよ。いいんだ、もう……」


 タマキが腕に少しだけ力を込めて、その頬をケントの頬に摺り寄せる。


「ケントしゃんは、オレを守ってくれるって言ってくれた。だから、オレは子供のままでもいいんだ。そうだよ、今まで通りで、このままで――」

「それは、俺がイヤです」

「え」


 ケントの言葉に、タマキが動きを止める。

 そして彼女は驚きに顔をあげて、すぐ近くにあるケントを見つめる。


「一人で、納得しようとしないでください。俺抜きで決着をつけないでください」

「ケントしゃん、でも……」


 まっすぐ、ケントは貫かんばかりのまなざしで、タマキを見据える。

 それも、タマキは若干気後れしたような顔つきになる。構わず、彼は言った。


「ケント・ラガルクは、タマキ・バーンズを守ります。何があっても、どうなっても、ずっとすっと、守り抜きます。それは、この先も変わりません。ずっとです」

「うん……」


 うなずくタマキ。


「でも、それだけじゃないんです」

「え、それだけじゃ、って……」


 うなずいた直後に、今度は目をしばたたかせて、かすかに口を開く。

 ケントは、つばを飲み込んだ。緊張、躊躇、共に一瞬。決意が彼の背中を押す。



「――好きです」



 月の光が射し込む洞窟の中で、彼はついにそれを告げた。


「俺、郷塚賢人は、グレイス・環・ガルシアさんのことが、大好きです」

「……ケント、しゃん」


 瞳を見開くタマキを、真正面から見返して、ケントは力強く続ける。


「誓いがあるから守るんじゃない。守りたいから守るんだ。好きになったから、守るんだ。月並みですけど、それは間違いなく俺の本心で、だから、えっと……」


 だが、全力を振り絞ってもついに限界。頭の中は真っ白だ。

 まだまだ言いたいこと山ほどあるはずなのに、全然、言葉になってくれない。


「お嬢のこと、大好きです!」


 結局、大声で再度告白することしかできなかった。

 いいんだ。言いたいことは結局、この一言に集約されるから、いいんだ。

 誰も気づかない、ケントの開き直りである。


 娘としか見ていない、なんていうのは所詮はただの言い訳だ。

 異世界のときから、彼自身の中にその萌芽はあった。タマキだけが特別だった。


「ケントしゃん……!」


 タマキが、また泣きだした。

 でも、今度の涙は意味が違う。価値が違う。


 大声をあげて泣き出すタマキを、ケントが強く抱きしめ直す。

 そして、右手で彼女の頭を撫でてやる。いつか、異世界でもそうしたように。


「オレも好き、ケントしゃんのこと、大好き、一番大好き……!」

「うん、俺もです。お嬢のことが、一番好きです」


 洞窟の中には、白い砂の泉がある。

 透き通ったその水面に、今、月と星と、抱きしめ合う二人が映り込んでいる。


 水面に映る二人の姿に、少しだけ変化が生じる。

 強く抱きしめ合っていた二人が、互いの顔に手を添え合って、触れ合って――、


「……好き」


 少女は呟き、いとしい男の唇に自分の唇を重ねた。

 とある、夏の夜の出来事だった。

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