第103話 初日/湖畔エリア/郷塚賢人は黒い熱に焼かれて

 キャンプ場のスタッフが、血相を変えて走り去ってしまった。

 それを目の当たりにしたケントは、何が起きたのかまるで理解できなかった。


 スタッフの男性はアキラと話していた。

 ほんの短い会話だ。二人とも小声だったため、会話の内容は聞き取れなかった。

 しかし、会話の直後にスタッフは急に走りだした。


 チラッとその顔が見えたが、この世の終わりを叩きつけられたような顔だった。

 一体、何があったのか。他の皆も、遠ざかるスタッフの背中を見送っている。


 疑問符ばかりが浮かぶケントに、アキラが押さえた声で告げてくる。

 そして、ついでにケントの手に何か紙切れを押し込んでくる。


「――ゼルケルだ」


 その言葉の意味を理解したとき、ケントの瞳は大きく見開かれた。

 まさか、手に押し込まれた紙は――、思って、目線を下ろして確認してみる。


 クシャクシャのメモ用紙に、七つの単語が記されていた。

 これは、話に聞いていた七星句。シイナ・バーンズの異面体の能力によるものだ。


 そこに書かれているものを読んで、ケントはまばたきをすることを忘れた。

 目の当たりにしたものの中には意味の知れないものもあった。


 特に最後の『熾靭』は何を示しているのか全く分からない。

 だが、竜人、ゼルケル、大雨。

 これだけ続けば、例え阿呆でも思い当たるだろう。そうか、あのときの――、


「ンだよ……」


 ただでさえ折り目だらけの紙が、ケントの手の中でまた握り潰される。

 周りの喧騒も、今の彼の耳には届かない。


 体の芯を、不快な熱が焼いていく。この熱の名を、彼は知っていた。

 かつて『出戻り』する前には、幾度も幾度も、その熱に自分の心を焼かれていた。

 熱の名は――、自己嫌悪という。


「全部、俺のせいじゃねぇかよ」


 母に愛されない実感を覚えるたび、父に殴られるたび、この熱に身を焦がした。

 そして実の姉に言葉に出せない扱いを受けたとき、それは最高潮に達した。


 今、ケントの身を焼くそれは、最高潮にも近しい高まりを見せている。

 自分が生きているから、ここにいるから、菅谷とタマキを危険に晒してしまった。

 その事実が、ケントの心に重くのしかかる。


「クソ……」


 にじみ出るものが、自らへの怨嗟となって口から衝いて出る。

 それを聞く者はいなかったが、しかし、彼の様子の変化に気づく者が二人いた。


「賢人君?

「ケントしゃん、どしたの~?」


 菅谷真理恵と、タマキ・バーンズであった。

 二人は、全くの同時にケントに声をかけ、そしてまた二人で一瞬睨み合う。


「いや、何でもないっすよ」

「……賢人君」

「ケント、しゃん?」


 しかし、力ない笑みを浮かべるケントに、二人は睨み合うのをやめて寄り添った。


「本当に大丈夫? 何か、顔色が悪いわ……」

「酔った? 酔っちゃった? それとも、腹痛? 食べ過ぎか~?」


 何の裏もなく心配をしてくれる二人の優しさが、ケントの胸にジンと沁みる。

 そしてそれは、彼の心の底に重く蟠る自己嫌悪を、激しく揺り動かしてしまう。


 ああ、俺、何やってんだろ。

 そんな疑問が、自然と頭の浮かんできた。


 自分のせいでこれから二人が大変な目に遭うかもしれないのに。

 それなのに、今、こうやって、二人に心配してもらっていい目を見ちまっている。

 ああ、本当に、本当に、俺ってヤツは……。


「本当に、自分はどうしようもないヤツ、ですかぁ~?」


 クスクスという笑い声と共に聞こえてきた言葉に、ケントはハッと顔をあげる。

 そして、明るい笑顔で自分のことを見ている颯々と目が合った。


「……橘さん?」

「はい、何でしょうか、郷塚君。センパイに心配してもらって、羨ましいですね!」


「ちょっと颯々ちゃん、そういう茶化し方は感心しないわね」

「はぁ~い、ごめんなさ~い。センパイったらす~ぐ怒るんですから~……」


 二人のやり取りを聞いて、ケントは軽く混乱した。

 今の『どうしようもないヤツ』という発言は、颯々のモノではない? 別の誰か?


「え、そんな……」


 顔をあげたケントが辺りを見回すが、自分の方を見ている者はいなかった。

 スタッフの逃走という珍事に、管理小屋から初老の管理人が出てきてるくらいだ。


「仕方がありませんねぇ、それじゃあテントは私が運びましょうか」

「すみませんが、そうしていただけますか。助かります」


 管理人とシンラの間で話がついて、ひとまず、場所を移動することになった。

 逃げていったスタッフは『人竜兄弟』のどちらかに違いあるまい。


 そこに意識が及んだとき、ようやくケントの中に自己嫌悪以外の感情が芽生える。

 そうだ、こんなところで落ち込んでいたところで、何になるというのか。


 今は逃げたとはいえ、連中はまだまだこっちを狙ってくるはずだ。

 それを阻まずして、他に何をしろというのか。ケントの中に新たな熱が灯る。


「……ケントしゃん?」


 気がつけば、タマキが彼の顔を横から覗き込んでいた。

 ケントは、間近にある彼女のまなざしに、無理矢理に笑みを作ってみせる。


「大丈夫っすよ、お嬢。ちょっと酔っただけです。だいぶ落ち着きました」

「ホント?」


 言っても、タマキの心配げな顔は変わらない。

 彼女にそんな顔をさせてしまったことが、本当に申し訳なくなる。

 けれど今は、全てをグッと飲み込んでおく。


「そろそろ移動ですよね。やっと湖、見れそうじゃないすか。行きましょ」

「ん~……、うん、そうだよな! 行こうぜ!」


 菅谷は、颯々に連れられて先に歩き出している。

 タマキも気分を切り替えたようで、ケントの前をパタパタ歩いていく。


 ケントの前に見える、二つの背中。

 菅谷も、タマキも、どっちも必ず自分が守ってみせる。


 ――例え、俺自身がどうなろうとも。


 彼の中に、新たに灯った激しい熱。

 だがそれは、何よりも彼自身を燃料として燃え滾る、危ういものであった。

 ケント・ラガルクは、まだその事実に気づいていない。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 ウオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォ――――ッ!?


「湖、ッだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~!」


 でか~い! 広~い! そして涼しいィィィィィィ~~~~!


「さすがに湖畔は空気がひんやりしてるわねぇ。ああ、気持ちいい」

「気持ちいいなぁ~、ここまで暑かったからなぁ~!」


 テントが運び込まれた湖畔エリア。

 湖岸とその周辺が切り拓かれた辺り一帯は、特に人気が高くてテントが多い。


 それでも、余裕で大型テントを三つ立てられる面積があるのがありがたい。

 俺とミフユは『テント立てるの邪魔するな』とお袋に言われました。七歳児辛ェ!


「おにいちゃん、おみずつめた~い!」

「冷たかろう、冷たかろう!」


 ケント含めた年長者がテント立てている間、俺とミフユはひなたの子守りだよ。

 ミフユは、周りの景色が気に入ったのか、まだ眺めている。


 まぁ、そうしたくもなるよね。

 だって実際、すげぇいい景色だよ、こいつは。


 どこまでも広がる青い空に、まばらに浮かんでいる雲。

 その直下には、緑の世界。青々と茂る山の木々が、どこを見ても連なっている。


 そして、その木々を背景にして、景色をそのまま逆さに映し込んでいる湖。

 湖岸は砂浜のようで、歩けばサクサクと子気味のいい音を立てる。


 湖にはボートや釣りをしている船なんかもあって、何とものどかな雰囲気だ。

 見れば、岸辺から釣りをしている人も結構いたりする。


 風は湖の方から流れてきて、空気は非常に涼しい。

 夏の空気を感じながら、同時に涼しく過ごせる、ここって最高のポイントでは?


「ボートもあるのね~。借りられるのかしら……」


 ミフユが、湖上のボートを見て、そんなことを呟く。

 おお、ボートにも乗れるのか。それはなかなか楽しみですよ!


「あ、おい、見ろ、ミフユ!」

「何よ、……って、わぁ~、お魚が跳ねてる~!」


 俺が指さした先で、魚が水面からパシャンと音を立てて跳ね出ていた。

 ミフユとひなたと俺が、それをもっとよく見ようと湖の方に身を寄せようとする。


「わ」

「きゃ」

「あう~?」


 そして俺がバランスを崩し、ミフユがそれに続いて、ひなたも巻き込まれて、


「「「うわぁ~!」」」


 バッシャ~ン!


「……何をしてるんすか、あんたらは」


 湖に落ちた俺達を、ケントが呆れ顔で引っ張り上げてくれた。

 うへぇ~、湖、つっめたァ~い! 最高!

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