第68話「独りの年末」

 12月末、岡は東京ビッグサイトで同人誌を売っていた。

 倉田が作った新作の小説本だ。

 しかし肝心の本人は、ブースどころか会場にすらいない。


 岡の目の前で、むすっとした表情の平野が仁王立ちしている。

 彼も辟易とした様子で彼女を睨み返した。


「なんで倉田さんいないんですか」

「前にも連絡したやろ。体調が優れないんだと。せやから俺が代わりにこうやってブースにおるんよ」

「知ってます。でもそういうことじゃないんです。私が言ってるのは」

「じゃあなんやねん」


 岡の問いに平野は答えなかった。

 不機嫌そうな無表情で、彼女は倉田の新刊を手に取る。


「とりあえず1冊ください」

「はいよ」


 500円を受け取り、岡は彼女に新刊を手渡す。

 どうも、と彼女はくるりと背を向け、その場を立ち去ろうとしたその時だった。


「めぐっちゃん、顔暗いで。今日は年末のコミケなんやから、楽しまな」


 ちとせは平野にぎゅっと抱き着いた。

 嫌そうな顔で彼女はちとせの抱擁を振りほどく。

 

「楽しめませんよ。倉田さんが体調不良なの、どうせ嘘ですよね」

「そうなん?」


 2人の目が岡に向いた。

 岡はそっぽを向き、素知らぬ顔で遠くを眺める。

 これは嘘ついてる顔や、とちとせが笑うので、溜息をついた岡は口を開いた。


「まあ体調不良は嘘やな。あいつが俺にリストバンドを渡してきたんや。自分は大阪に残るからって」

「なんでそんなことすんの?」

「ハルさんが大変なのに、自分だけ楽しめないってさ。アホよなあ。そんなん関係あらへんのに」


 へん、と吐き捨てるように岡は笑った。

 しかしすぐに彼の表情が曇る。


「まあ、あの子らしいと言えばそうやな。ちょっと優しすぎる気もするけど」


 晴海の祖父が亡くなったことについて、ちとせは本人から聞かされていた。

 ちとせは仙台の方向を向き、神妙な面持ちでじっとその方角を見つめる。

 何も知らないのは平野だけだ。


「どういうことなんですか。倉田さんが来てないの、ハルさんと何か関係あるんですか?」

「まあ、関係あると言えばそうやし、勝手にアイツがそう思いこんどるだけとも言える」

「どっちなんですか」

「解釈次第や。お前の判断に任せる。外野の俺たちがあんまりとやかく言えるようなことやない」


 それでも岡の言葉に不服だった様子で、しばらく平野はむすっとした表情のままだった。

 話してください、と言わんばかりにちとせの方を睨んだ。

 ちとせは平野から目を逸らしたが、目力には勝てない。

 じーっと見つめられた圧力に耐えられず、ちとせはクリスマスの出来事を話す。


 このことを晴海から聞いた時、ちとせは何も言葉が出なかった。

 どう反応すればいいのかがわからなかった、というのが正しい。

 晴海にとって祖父がどれほど大切な存在かというのは前に聞かされたことがあるから、自分の原点を作ってくれた人がいなくなってどれくらい悲しいかなんて、きっと計り知れない。


「ホント、バカみたいな人ですね」


 言葉を吐き捨てた。

 泣き出しそうなのをグッと堪え、代わりに拳の方に力を込める。

 ああ、本当に敵わないんだな、とこの時本能的に察知した。


 誰かのために必死になれる。

 それが愛というものなのだろう。

 やっぱり彼にとって、晴海という人物は特別で、自分なんか相手にもされていない。

 最初から、勝負にすらならなかった。

 土俵にすら上がることはできなかった。

 そんな悔しさがずっと胸の中に残る。

 きっと永遠に消えることはないだろう。


「ま、あいつ抜きでも楽しみましょ」

「そうやね。せっかくのコミケやのに、楽しまな損やで。他の参加者にも角が立たん」


 ニッと笑うと、ちとせは岡と平野を寄せて自撮りする。

 その写真を大阪にいる倉田と、仙台にいるちとせにそれぞれ送信した。


 同じころ、大阪。

 倉田は黙々とPCに向かって作業をしていた。

 次に出す同人誌の原稿だ。


 本来なら東京にいて自分の小説本を売る予定だったのだけれど、晴海一人苦しんでいる中でそういうことをするのはさすがに忍びないと感じたので、売り子は岡に任せて今回は参加を見送ることにした。


 ピコン、と通知が届き、倉田はメッセージを開く。

 相手はちとせからだった。

 仲よさそうに映る3人の姿があって、その写真と共にメッセージも添えられていた。


『気負いすぎたらアカンで』


 たったそれだけの言葉。

 だけど倉田にはそれで十分だった。


 もちろん気負いすぎているつもりなんてない。

 だから大丈夫……と言いたかったところだけど、無意識に思い詰めていた部分は正直あった。


『気負わない程度に頑張ってます』

『そうか、それは良かった』


 Vサインするキャラクターのスタンプが送られてきた。

 ふふ、と笑みがこぼれ、再び倉田は執筆活動に取り組む。


 今、晴海は元気にしているだろうか。

 時折ふと彼女のことを考えてしまう。

 けれど今は精神的にかなり参っている状況だろう。

 自分から連絡するのはやめよう。


 そんなことを考えながら文字を打っている最中のことだった。

 突然晴海からのメッセージが届いた。

 仙台で別れて以来、これが初めての会話となる。


『ちとせたち、楽しそうですね』

『そうですね。僕も行きたかったです』

『あれ、ソースケさんも行ってないんですか?』

『生憎体調が悪くて……』

『それはお大事になさってください』


 間違っても「あなたが楽しめないのに自分が楽しめるはずがない」なんて言えるわけもなく、倉田は返信を送った。


『ハルさんこそ、風邪には気を付けて。

 それと、何かあったらいつでも頼ってください』


 彼女から帰ってきたのは「わかりました」というたったそれだけだった。

 その5文字でさえ、倉田のテンションを高くするには十分だった。


「よし!」


 筆を進めるスピードが上がる。

 カタカタとタイピングを続け、気が付けば16時を回っていた。

 こうして、倉田自身の年内即売会スケジュールは変わってしまった。

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