第66話「祖父の話」

 昔から私は、絵を描くのが好きでした。

 でも父と母は、私が絵を描くことをあまり快く思ってはいませんでした。

 いつも私に言うのは「勉強しろ」という言葉ばかり。

 優しい両親でしたけど、真面目な人たちでしたから、私が「漫画家になりたい」と言った時は反対されました。


 だけど、祖父だけは私の絵を褒めてくれたんです。

「上手だね」「上手く描けたね」と言って私にいつも声をかけてくれたんです。

 祖父がいなければ、きっと私はこの夢を抱くことはなかった。

 祖父は……私の原点なんです。


 語りの途中で彼女はまた涙を流した。

 きっと、語ってくれた以上の思い出が、彼女の中にあるのだろう。

 力になってあげたい。

 だけど、何もすることが出来ない。

 出来ることがあるとするなら、せいぜいそばにいてあげるだけ。


 無力だ、と倉田は悟った。

 お金も地位も、何もない。

 明確に彼女を救える手立てがあるわけでもない。

 今の状況は詰みに等しい。

 だとしても、何もしないよりは、何かしてあげたいというのが性だ。


「いいお爺さん、だったんですね」

「ええ。とても素敵な人でした。誰に対しても物腰が柔らかくて、でも凜としている部分もあって。少し憧れていたんです。こんな大人になれたらいいなって」

「じゃあ本当に、今のハルさんの原点だったんですね」

「はい。実は、私の名前も祖父が名付けてくれたんです」

「そうなんですか?」


 コクリと彼女は優しい目で頷いた。


「海が好きだったんです。晴れ渡った空の下に広がる青い海が。だから、私にも透き通るおおらかな心を持ってほしい、と言う意味を込めてそう名付けたみたいです。単純でしょう?」

「いいえ、とても素敵な理由だと思います」

「そう言ってくれると嬉しいです。私も、この名前は好きだから」


 また彼女に笑みが戻った。

 弱々しいけれど、微かに灯った光だ。

 この光を大切にしていきたい。


 前方を見ると、ペットボトルとクラフトコーヒーを携えた岡がこちらにやってきた。

 彼は運転席の前に立つと、ゆっくりとドアを開ける。


「トイレとか、行っといた方がええで。この先また休憩するけど、出来れば休憩の回数は減らしたいから」

「大丈夫。けど、無茶だけはするなよ? 俺に運転代わってもいいからな」

「アホ。素人にハンドル握らす方がよっぽど不安じゃ」


 へん、と息巻いた彼は、ペットボトルのお茶を一口飲み、クラフトコーヒーを後部座席の2人に渡した。

 コーヒーは苦かった。

 初めて晴海と会ったあの時よりも。


「よっしゃ、行こう」


 岡の合図と共に車が発進する。

 また長い長いドライブが始まった。

 車は愛知、静岡を超えて、東へと進んでいく。


「なんか音楽でもかけるか?」

「いい。お前激しい曲しか聴かないから」

「さすがに今の空気でロックな曲はかけへんで」


 苦笑いを浮かべ、岡は運転席横にある小さな鞄に目を向けた。

 倉田もその鞄に目をやる。


「俺のスマホ、そん中に入っとるから、適当に弄ってなんかかけて」

「だったら俺のスマホでやるよ、面倒くさい」

「それもそうだな、ハハハ」


 らしくないジョークだと思った。

 彼なりに場を和ませようとしているのだろうか。

 しかし彼の気遣いと裏腹に、晴海の顔は暗いままだ。

 危篤から脱したとはいえ、祖父の命が風前の灯火であることに変わりはない。


 またスマホの通知が鳴る。

 今度は電話ではなく、メッセージの方だった。


「お母さんからですか?」

「はい。また、祖父の容体が悪くなったと」

「そうですか……」


 彼女の言葉を聞き終えるよりも早く、岡はペダルをぐっと踏み込んだ。

 気持ちは皆一緒だ。

 一刻も早く仙台まで送り届ける。

 その一心で倉田はハンドルを握った。


 またSAで休憩を取る。

 時刻は朝の5時だが、まだ外は真っ暗だ。

 コミケの時に見た朝焼けはまだ見れそうにない。


 ずっと座りっぱなしも疲れた。

 岡と一緒に倉田たちも降りて、朝食を買いに行く。

 こんな状況で腹も空かないが、一応買っておく。

 買ってくれたコーヒーも飲み干してしまった。


 SAの建物内のスーパーのパンを3人は購入し、寒空の中黙々と食べた。

 車内は逆に圧迫感があって息苦しい。

 こうして新鮮な空気を吸っておかないと、運転に支障が出かねない。


「食べられそうですか?」

「メロンパンくらいなら、なんとか……」


 倉田の問いに答える晴海だったが、明らかに食が進むスピードが落ちている。

 気がかりで仕方ないのだろう。

 それでも、着実に進んではいる。


「クリスマス、終わっちゃったんですね」

「はい。もうすぐ年末で、お正月です」

「早いなー。大人になったら、時が過ぎるのもあっという間ですよ。ホント、おじいちゃんに頭を撫でてもらったのだって、つい昨日のことのように覚えているのに……」


 涙声になる晴海を、倉田たちは何も慰めることはできなかった。

 彼女も涙を堪え、もぐもぐとメロンパンを食べる。


 仙台まであと4時間。

 緊張感はまだ拭えない。


「行くぞ」


 張り詰めた岡の言葉と共に車に乗り込んだ。

 ここまでずっと運転をし続けている彼には脱帽でしかない。


 車内での晴海はただ祈っていた。

 東に向かうにつれて、会話は少なくなっていく。

 一応リラクゼーションのBGMをかけてみたけれど、かえって逆効果になりそうな気がした。

 今はそっとしておくのが吉かもしれない。


 外が明るくなってきた。

 東京に入り、倉田は窓の外を眺める。

 紫色の空は、なんだか晴海を元気づけているようにも見えた。


 倉田も車内で祈った。

 せめて、ハルさんが到着するまで、もう少し、ほんの少しでいいので、粘ってください。

 お願いします。

 ここまで来たら、もう神にも仏にもすがりたくなる。

 あとは、彼女の祖父の生命力を信じるしかない。

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