第65話「エゴ」

 全てを聞き終えた彼は、そうか、とだけ呟いて、車を発進させる。

 いつもより少し荒々しい運転だった。


「安全運転で頼むよ」

「わかってる。それと、ぶっ通しで仙台まで行けるわけないから、途中で休憩挟むぞ」

「了解」


 岡はペダルを踏み込み、高速道路へと入っていく。

 夜の高速道路は渋滞の心配をしなくていいから、少し気が楽だ。


「変ですね、ソースケさん」

「変って、何がですか?」

「だって、今から仙台なんですよ? 何時間かかると思ってるんですか。東京まで行くのにバスで8時間から9時間くらいかかるのに……」

「そんなの、あなたに後悔してほしくないからに決まってるじゃないですか」

「後悔……」


 これは、単なるわがままだ。

 倉田は一呼吸置いて、話し始めた。


「高校3年の頃、祖母が亡くなったんです。その時僕は部活の遠征で、すぐに行けなかったんです」

「でもそれは、しょうがないことなんじゃないですか?」

「しょうがなくないです。連絡を受けたとき、祖母はまだ危篤の状態だったんです。今から帰ればギリギリ間に合うかもしれない。遠征と言っても兵庫県内だし、すぐに飛んで行けない距離でもなかった。でも……僕は、試合を選んだんです」


 車内の空気が淀む。

 ずしんと重たい雰囲気がこの狭い空間を支配した。

 話は続く。


「高校最後の試合だったんです。これを勝てば、全国に行けるかもしれない。そんな状況でした。でも負けました。家族より自分の欲を優先させた結果がこれです。何も得ることは出来ませんでした」


 悔しそうに、彼はギュッと拳を握る。

 いろんなことが思い起こされた。


 その日はすごい酷暑だったのを今でも覚えている。

 バスケの決勝大会で、ここを勝てば全国大会に進める、という大事な

局面だった。

 危篤の報せを受けても試合を優先したのはそのためだ。

 みんなと一緒に優勝の瞬間を分かち合いたい、というのもあったけれど、一番は幼少期の記憶も関係している。

 晩年は入退院を繰り返していたけれど、祖母は元々とても丈夫な人だった。

 長時間歩いても疲労の顔すら見せず、いつもニコニコ笑っている。

 病室にいた時だってずっと笑顔だった。

 だから、危篤だと言われても実感なんて沸かなかったし、どうせ大丈夫だろう、という根拠のない自信すらあった。


 けれど現実は違った。

 試合には負けたし、祖母はあっけなく死んだ。

 もっとちゃんと、別れの言葉を言ってあげればよかった。

 そんな思いが日を重ねるにつれてどんどん強くなっていく。


 会える時に会っておかないと、あとで後悔する。

 それを思い知らされた夏だった。


 だから晴海には、後悔してほしくないのだ。

 別れの言葉はちゃんと言ってあげた方がいい。

 これは単なるエゴだ。

 晴海にとって、もちろん岡にとっても、ものすごい負担と無茶をかけていることは重々承知だ。

 だけど、距離を理由にして会わないというのは違うと思う。


「似てたんです。ハルさんの姿が、あの頃の僕と」


 ポツリと倉田は呟いた。

 晴海は黙って隣の彼をじっと眺める。


「ただのわがままに付き合わせてしまってすみません」

「いえ、そんなことないです。私の方こそ、嬉しかったんです。私のためにこんなに一生懸命になってくれたこと、私の心を案じてくれたこと、そして私の家族の心配をしてくれたこと……いろいろ、心がじんとしたんです」


 そう言う晴海の顔は、どんな表情ともつかなかった。

 喜怒哀楽は欠落していて、全くの無表情。

 声には何も感情が乗っていない。

 ただ、心が壊れたわけではないのはわかった。

 彼女の目には、キラリと光るものがあるのを倉田は見逃さなかった。


 車はSAに停まった。

 ここで少し休憩を取る。


 停車した瞬間に電話が再び鳴った。

 晴海のスマホだ。

 緊張の空気が走る。

 ごくりと晴海は固唾を呑み、電話を取る。


「もしもしお母さん? どうしたの? ……うん、うん、そっか、そうなんだ。わかった。私も明日の朝そっちに向かうから。うん。ありがとう。あと、おじいちゃんに『今までありがとう』って伝えておいて。もしかしたら、間に合わないかもしれないから。ごめん。……うん、それじゃあ、お母さんも無理はしないで」


 電話が途切れた。

 車の天井を棒っと眺める晴海に、倉田は声をかける。


「あの、大丈夫ですか?」

「はい。祖父、容体を回復したそうです。でも今晩が峠かもしれないそうで」

「そうですか……ひとまず安心ですね」

「だといいんですけど……」


 彼女の言う通りだ。

 今から何時間もかけて仙台に向かうわけだが、その間祖父が待ってくれる保証なんてどこにもない。

 むしろ、この9時間の間に息を引き取ってしまう可能性の方が高い。

 緊張感はまだ車内に充満したままだった。


「俺、飲みモン買ってくる。何がいい?」

「カフェオレホット」

「私も同じものを」

「あいよ」


 岡は運転席から降り、自販機に向かった。

 車内は倉田と晴海の2人だけだ。

 BGMも何もない、無音だけの空間。

 緊張感がさらに増す。


「あの」


 重たい空気を打破しようと、倉田が声をかけた。


「よかったら、ハルさんのおじいさんの話、詳しく聞いてもいいですか?」

「ええ、構いませんよ。と言っても、面白いエピソードなんて何もないんですけどね」


 悲しい笑顔だった。

 そんな表情は見たくなかった。

 けれど、今の晴海にはいつものような笑顔を作る気力すら残されていない。

 くしゃくしゃになりそうなのをぐっとこらえて、彼女は語りだす。


「祖父は、私が漫画家を目指そうと思ったきっかけをくれた人でもあったんです」

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