リアルの『推し』が隣に引っ越してきた
とある日の事。
具体的には静と知り合って、真冬ちゃんと再会して、その翌日の事だった。
「なんだ? 誰か入ったのか?」
梅雨に差し掛かったこの時期の午後6時はまだまだ空が明るい。
大学帰りの俺は自宅マンションの駐車場に有名な引っ越し会社のトラックが停まっているのを遠目に発見した。背中にデカデカと社名が入った作業着姿の男が数人、せっせと段ボールやら家具やらを運び出している。
俺は勤労に勤しむ大人たちを横目にマンションに入ると、エレベータの呼び出しボタンを押した。
階数表示のライトが下がってくるのを眺めていると、段ボールを抱えた体格のいいあんちゃんが隣に並んだ。エレベータが到着し扉が開く。俺は両手がふさがっているあんちゃんの代わりに操作盤の前を陣取った。
「何階ですか?」
その問いにあんちゃんは慣れ親しんだ階層で答えた。俺が住んでいる階だ。マジか。この前静が引っ越してきたばかりだっていうのに、また新しい住人が増えるのか。
いい人だったらいいな。出来れば綺麗な女の人で。
そんな事を考えているうちに、エレベータは目的の階に到着した。あんちゃんは「あッした」と野球部ライクな礼をよこすと、力強い足取りで空き部屋に荷物を運んでいく。そこは俺の家の向かいだった。
────うちのマンションは1階層4戸のつくりになっていて、中央のフロアを挟んで片方に2戸、反対側に2戸というレイアウトだ。その一辺には俺と静が住んでいて、その向かいの2戸のうち、俺の家の向かいに新しく誰かが入ってきたらしい。これで空いているのは静の家の向かいのみになった。この前まで俺しか住んでいなかったのに、急にどうしたことやら。引っ越しシーズンではないはずだが。
「…………」
新しい住人がどんなパーソナリティを持っているのか気にならないと言えば嘘になるが、顔を見に行くわけにもいかない。俺はそわそわする気持ちをぐっと抑え自宅の鍵を開けた。開けながら静にルインを送る。『向かい誰か引っ越してくるっぽい』っと。
『マジで!?』
静からの返信はすぐ返ってきた。まだ出会ってから2日だが、俺たちはすっかりルイン友達になっていた。要件も目的もない会話をだらだらと続けている。これがまあ、割と楽しかった。
『イケメンだったらいいなー』
『いや絶対美少女だって』
『なに美少女って笑』
『いや美少女は美少女だろ』
『美少女だと私とキャラ被っちゃうからなー』
『美少女(20)』
『うっせ』
頭を経由させず指先に任せた会話のラリー。つい口元が緩みそうになるのをぺちっと叩いて諫めた。
いやまあ、確かに美少女だと静とキャラ被っちゃうよな。本人には絶対言わないけど。
『私ちょっと偶然装って見てくる』
『不審者じゃん止めとけって』
静は俺と違って行動派だった。俺の忠告に既読がつくことなく、5分ほどラリーが途切れる。
…………まさか、本当に見に行ったのか?
どうやって偶然装うんだよ。引っ越し作業中の部屋にたまたま入ってしまう理由があるのなら是非教えて欲しい。つーか普通に邪魔になるだろ。
様子を見に行ってみようと玄関に向かったその時、スマホが音をたてた。
『めっちゃ綺麗な人だった!!!』
「マジか」
静の報告にハードボイルドな俺も流石に頬が緩むのが分かった。おいおいマジか、俺の春来ちゃったこれ?
『マジで?』
『マジマジ。なんかキラキラしてた。オーラ的なのが』
『やばそう』
静と真冬ちゃんだけでも俺の人生からしたら遥かに身に余る高嶺の花っぷりだと思うが、更に畳みかけてくるというのか神よ。一体いくら払えばよろしいでしょうか。
◆
「…………え」
俺は固まっていた。蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。いや、それよりいい表現が今この瞬間だけはある。それは何か。
────『推し』に声を掛けられたオタクのように固まっていた。
「え、は、え…………?」
突然の出来事に思考が完全にショートしていた。急に目の前に現れた『推し』に、脳が急激な糖分接種を拒んでいる。
向かいに越してきた、静曰く「キラキラしてた」女性はうちの玄関口でそう名乗った。でも俺は彼女を
「え…………あの、声優の、
俺が何度も詰まりながら口に出来たその言葉に、彼女はぱあっと顔を綻ばせた。
「あら、知ってくれてるの?」
「あ、はい、あの、俺あの…………『八住ひより推し』なんで……ザニマスのライブも、全部、行ってます。ドレキュアも、観てます」
やばい。
マジでやばい。
心臓が口から飛び出していきそうだ。
エッテ様が、静が、隣に越してきた時とは比べ物にならない破壊力が今俺を襲っている。
だってそうだろ!?
なんとかこっちを向いて貰おうと必死にサイリウムを振って、目線がこっち向くだけで「目が合った」なんて喜んで、手なんて振ってくれた時には一生の思い出になるような、そんな輝きの向こう側。
演者とファン。そんな圧倒的な壁の向こう側。
数万の中の一人として、名もなきモブとして見つめるしかなかったあの八住ひよりが、今目の前にいて、あろうことか俺の話を聞いている。
つーか可愛すぎる。
なんだこれ、顔面宝石で出来てるだろ。
そりゃ勿論ばっちりメイクをキメたライブ中の方が輝いているけどさ、それでもそんなん関係ない。言葉に出来ないけどヤバい。『推し』が目の前にくるっていうのはそういうことなんだ。冷静に言葉なんか探せる訳がない。
「そうなんだ。嬉しいなあ。いつも応援してくれてありがとぉ」
八住ひより、通称ひよりんは首を傾けて微笑んだ。
「…………アッ」
たったそれだけの事で、俺はダメになってしまった。完全にキャパオーバーだ。
「…………ぬ?」
俺が頭部から煙を吹き出して案山子みたいに直立不動の姿勢で固まっていると、間の抜けた声と共に隣の玄関が開いた。餌に首を伸ばす亀みたいに、静が顔だけを出してこちらを窺っている。
「ああ、先程の」
どういう偶然を装ったのか分からないが、ひよりんは静にペコっと頭を下げた。「ども」と静は玄関から完全に身体を出してこちらに歩いてくる。
「支倉ひよりと申します。これからよろしくお願いします」
「林城静です。こちらこそ…………と言いたい所なんですけど、実は私も一昨日引っ越してきたばかりなんですよね」
「あら、そうなんですか?」
「そうなんです。こっちの蒼馬くんはもう結構長い間住んでるみたいなんですけど」
「…………あ?」
名前を呼ばれ、正気に戻る。危ない、意識が飛びかけていた。
「そういえばまだ名前聞いてなかったね。蒼馬くん、でいいのかな?」
「えっ、あっ、ハイ。天童蒼馬ですっ」
「天童蒼馬くんね。これからよろしくねえ」
「アッ、ハッ、ハイ!」
「…………何故にタメ語だし?」
俺たちのやり取りをジト目の静が睨んでいた。『湿度上がるビーム』をこちらに向けて発射している。
「えっと、私声優をやっているんですけど、蒼馬くん、私のファンらしいの。それでついこっちも砕けちゃって」
「えっ、声優!?」
静は一昔前の漫画だったら喉ちんこまでくっきり描かれるくらいに口を大きく開けて驚いた。
まあそうなるよな。いきなり声優が引っ越して来たら驚くよな。
「え、なんて名前か聞いちゃってもいいですか?」
「八住ひよりっていう名前なんですけど…………知ってるかなあ?」
「…………うーん…………? 聞いたことあるよーなないよーな…………?」
俺と違って静は声優に詳しくないんだろう。いまいちピンときていないようだった。
「あはは、まだ有名じゃないからねえ」
「いや、そんな事は! ひよりんさん今期からドレキュアにも出てるじゃないですか! 静が無知なだけですって!」
「む、なにおう」
悲しげに笑うひよりんが見ていられなくて俺は慌てて口を挟んだ。ばっさり切り捨てられた静が不満げに口を膨らませた。
「…………蒼馬くん、やけにひよりさんの肩持つじゃん。いちおー私も『推し』なんじゃなかったのかなー」
「や、そんな事言ったって流石に推しの声優が目の前にいるのはインパクトが違うって」
「何が違うのさ」
やいのやいの言い合う俺たちをひよりんが不思議そうに眺めていた。
「『推し』…………? 静さんも何かやっているんですか?」
ひよりんのその素朴な質問に、俺たちは言い合うのを辞めしばし見つめあった。俺に出来ることはない。俺は無責任ビームを静の瞳に照射した。
静は「あー」だの「えーっと」だの言って場を繋いでいたが、やがて観念したのか口を開いた。
「私、VTuberやってるんです。バーチャリアルのアンリエッタって名前で────」
「うそっ! エッテ様!?」
今度はひよりんが驚きの声をあげた。全身ブランドで固めたショーウィンドウのマネキンに瞳を光らせる女子高生のように、前かがみで静に身体を向けた。
「私エッテ様の配信めっちゃ観てます! じゃあ一昨日のポヤング配信って、ここに引っ越した記念だったんですか?」
「あ、え…………えっと、はい。そう、です…………?」
静はまさかガチの声優が自分のファンだと思わなかったんだろう。呆気にとられていた。
「えーどうしよう、凄い偶然。あの、良かったら仲良くしてください」
「あ、はい。こちらこそよろしく、お願いします」
そう言って差し出されたひよりんの手を控えめに握り返す静。
いいなあ、握手出来て。
「あっ、蒼馬くんもこれからよろしくね? それにしても、隣人さん達がいい人そうで良かったわ」
俺の前に手は差し出されなかった。
ひよりん、ライブのMCやネット番組の生放送だとはきはきした喋り方だけど、オフではゆったりした話し方なんだな。
こうしてリアルの『推し』が隣に引っ越してきた。
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