第17話
「ちょっ、さくら、さん? 怒ってるんですか?」
真正面から尋ねたのが、火に油を注ぐ結果となった。
その問いに応えるつもりか、さくらさんが僕に拳を振りかざしたのだ。
「うっ!」
思わず目を閉じる僕。しかし、さくらさんの拳はいつまで経っても当たらない。
ゆっくり目を開くと、その拳は僕の左胸に押し当てられていた。拳で触れられた、と言った方がいい。
これ以上下手なことは言えない。僕が黙り込んでいると、さくらさんが口元をもごもごさせ始めた。何か言おうとしているようだが、よく聞こえない。
訊き返したら、今度こそ殴られるかも。僕は黙って、肩を上下させるさくらさんを見つめていた。ようやくさくらさんの言葉が僕の耳に入ったのは、僕の胸に二発目の拳が押し当てられた時だった。
「どうして……どうして秀介さんに本当のことを伝えないんですか」
本当のこと。事実。真実。
言い方は何でもいい。さくらさんの言わんとすることは、流石の僕でも察せられた。
「どうしてリナちゃんがまともな人間じゃないと、秀介さんに伝えないんですか? そのあなたの曖昧な態度が、いずれ秀介さんの心の優しい部分を粉々にしてしまうかもしれない。どうしてそれが分からないんですか!?」
怒鳴り散らすさくらさん。その目の前にいた僕には、しかし手の打ちようがなかった。
物理的に彼女の動きを封じることはできるだろう。だが、僕の身体は動かない。否、動かすことができない。
涙をぽろぽろと零すさくらさんだが、リナが泣き出した時とは大きな違いがある。
長髪を振りかぶり、地団太を踏み、今度は左腕も使って非力な殴打を僕の胸に見舞う。
彼女にこんな暴力性というか、衝動的な感情があったとは……。
丸眼鏡を外し、ぐしぐしと目元を拭ったさくらさんは、今度こそしっかりと僕を真正面から見つめた。
「あなたは兄として失格です。失望しました」
失望した、だって?
人の家庭事情に踏み込む権利はない! そう言ってやりたいのは山々だった。胸倉を掴んで揺さぶってやりたかった。
だが今や、僕は四肢の指一本はおろか、喉すらまともに動かせなかった。呼吸ができているだけでも奇跡なんじゃないか。
「恵介さん、あなたと秀介さんは、お父様をゾンビに、香藤玲子に殺害されて、それ以降復讐を誓ってきたのでしょう? お父様と同じ被害者を出さないために、こんな任務に従事しているのでしょう? それほど家族想いなあなたが、いくら残酷とはいえ実弟に真実を隠そうとするのは――あまりにも卑怯です」
失望しました。
そう繰り返してから、さくらさんは僅かに腕に力を込め、僕の上半身を軽く突き飛ばした。
それから彼女が振り返り、廊下の角を曲がって歩き去ってしまうまで、僕にかけられた硬直の呪いは解けなかった。
※
その日、僕は行く宛を失っていた。
研究棟のラボに行けばさくらさんと遭遇する可能性が高いし、再び医療棟の個室に戻ったら秀介と顔を合わせてしまう。
秀介のことだ、きっとさくらさんが話そうとしたことが何だったのか、僕に尋ねてくる。
真実を伝えれば秀介は絶望するだろうし、そうしなければ僕はさくらさんに卑怯者のレッテルを貼られたままになる。
「僕にどうしろってんだよ……」
結局、僕は宿舎の食堂の隅っこで、何の注文もせずに頭を抱えることになった。
「喉、渇いたな」
僕は額に当てていた両手を外し、顔を上げた。食欲はなかったが、水分はやはり身体のために摂取した方がいいらしい。
食堂の反対隅にあるドリンクコーナーで、麦茶を頂戴して席に戻ろうとした、その時だった。
「あっ、諸橋博士!」
「はい?」
顔見知りの研究員が、僕の方に駆けてきた。その手には薄いバインダーが握られている。
「探しましたよ、博士! これ、笹原博士から預かってきました」
「さくらさんから?」
「ええ。決して中身は見るなとのことでしたので、何のレポートかは分かりませんが……」
「僕への閲覧許可は出ているんですよね?」
「まあ、そうでしょう。でなければ、届ける意味がないでしょう?」
「はあ」
礼も言わずにぼんやりしている僕に、研究員はやや苛立った様子だった。
「では、自分はこれで失礼します」
「はい」
いつものような、お疲れ様です、とか、もうちょい頑張りましょう、とか、そんな言葉すら出てこない。
本当に僕は、さっきの暴力的なさくらさんの姿に圧倒されてしまっていたんだな。
機密保持の観点からして、このバインダーは自室に戻って精査すべきだろう。
僕はその場で立ったまま麦茶を飲み干し、自室へ引っ込んだ。
※
一見して何の変哲もないバインダーだ。しかも、極めて薄い。研究に関するレポートとは思えない。
まさか、僕に対する呪詛でも書かれているのではあるまいか。一瞬そんな考えが頭をよぎったが、そんな迷信じみた行動に走るさくらさんの姿は想像できない。
「ま、まずは開いて見てみないとな」
敢えてそう口にして、僕は表紙を開いた。
一枚目は、手書きのメモだった。いかにもリケジョらしい、きっちりとした文体で、中央に一文だけ書かれている。
「ご覧になったらすぐに破棄してください……?」
やはり、研究レポートではないな。僕はそんな確信と共にメモを捲り、一ページ目を開いた。
そこにあったのは、新聞記事の切り抜きだった。日付は十年前になっている。
だが、注目すべきはずばり見出しだ。
『東京都西東京市、一家殺傷事件』とある。
僕は嫌な予感がして、その切り抜きの文字を頭に叩き込み始めた。
事件のあらましはこうだ。
十年前の十二月四日、午後六時頃。ある一家の暮らす平屋建ての家屋に、斧を持った犯人・笹原辰也(当時十九歳)が玄関から押し入り、たまたま出くわした家主の男性に斬りかかった。
男性は命に別状はなかったものの、犯人はそのまま家屋に踏み入り、食事の準備をしていた男性の妻を脅して一人息子の居場所を訊き出した。
すると犯人は女性には手を出すことなく、息子(当時十二歳)の部屋に殴り込み、背後から斧でめった斬りにした。
玄関で遭遇した男性(父親)の時と違い、明らかな殺意を持って息子を執拗に斬りつけ、通報を受けた警官が到着した頃には、息子の四肢はほぼ皮で繋がっているような状態だったという。
その当時、犯人である笹原辰也の家庭は荒れていた。きっかけは妹である笹原さくらが、学校で執拗ないじめを受けていたということ。
警官たちに身柄を確保される際、辰也はこう言い放ったという。
『俺の妹は、あいつのせいで酷い目に遭わされていた』
『お前たちにも家族がいるだろうに、それがいじめられたらどう思うんだ』
と。
結局、家庭裁判所で証言台に立った辰也は同じことを繰り返し、罪を全面的に認めた。
また、さくらさんが学校でいじめられていた客観的な証拠が集められたことから、辰也は辛うじて極刑は免れ、現在も服役中。
「そうだったのか……」
四枚目、最後の切り抜きを読み終えた僕は、深い溜息をついた。
僕や秀介は、復讐する対象と今戦っている相手が一致するから事情は分かりやすいかもしれない。
だが、さくらさんは違う。
一見、自分を守ろうとした兄を裁いた社会に復讐するのが筋であるように思える。しかしさくらさんの選んだ進路、そして今の社会的立場は、社会秩序や世論を守る側のものだ。
「どうして彼女はゾンビを倒そうとしているんだ……?」
そのくらい自分で考えろ。
一瞬、そんな文字がバインダーの裏面に浮かび上がってきたように見えた。
※
驚きのあまりだろうか、悩んで頭を使ったからだろうか、僕はやっと自分が空腹であることに気づかされた。
随分と考え込んでいたようで、外はもう真っ暗だ。携帯を見ると、既に午後十時を回っている。
「食堂が二十四時間やってるってのは有難いな」
そう呟いて、僕は席を立とうとした。が、一つ思い出した。
読了してしまった以上、このバインダーは速やかに破棄せねばならない。いや、バインダー自体はそのままでいいとしても、中身の新聞記事はどうにかしなければ。
「どうしたもんかな……」
誰にも見つからずに破棄、というのは難しいものだ。取り敢えず、ラボのシュレッダーにでもかけるしかない。
僕は記事をぐしゃぐしゃに丸め、ズボンのポケットに突っ込んだ。食事をしてからラボに寄って、シュレッダーを使わせてもらおう。そういう考えだった。
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