第4話
この組織には香藤玲子、及びゾンビに対する憎しみから入隊した者も少なくない。そのくらい、ゾンビに関する事案はこの十年で頻発している。
お互いに憎しみ合っていては、平等で正当な解決は望めない。だが、それは家族を死傷させられた者たちにとっては、あまりにも高いハードルだ。
まあ、他人のことを言えた口ではないのだが。僕も、秀介も。
ん? 待てよ。
僕はそっと会議室内を見渡した。いつも最前列にいるはずの秀介の姿がない。
そんな馬鹿な。あいつはゾンビに人一倍強い憎悪を抱き、血気盛んな人間だ。その姿がこの重要な会議で見られないとは、一体どういうわけだ?
僕はひとまず、昨日サンプリングした細胞から分かる解析結果を発表し、降壇した。
何故だか分からない。だが、胸騒ぎがする。この場にいてはいけないような、秀介の下へ急がねばならないような。
「さくらさん、プレゼンの続き、お願いできますか?」
「あっ、はい! あとは分子生物学の分野なので、大丈夫です」
僕はさっと頭を下げ、その場を後にした。
※
最寄りのトイレやら筋トレルームやら、僕は秀介のいそうな場所を見て回った。だが、誰もいない。
「あいつ、一体どこに……」
結局、僕は最も秀介の立ち寄りそうにない、医療棟の前に立っていた。
入口で研究員用のパスカードを通し、網膜認証を受けてから入棟する。
秀介は誰かを見舞うような性分ではない。僕が過労で倒れた時だって、射撃訓練に勤しんでいた。だからこそ、まさかここにはいるまいと思っていたのだが。
「諸橋秀介・二等陸曹ですか? 先ほどいらっしゃいましたよ」
「え?」
僕の顔が滑稽だったのか、口の端を上げる警備員。
「誰に面会申請したか、教えていただけますか?」
すると警備員は、髭でざらついた顎を擦ってからこう言った。
「本来なら守秘義務があるのですが……。恵介研究員はお兄様ですからね。部屋の番号だけ、特別に教えて差し上げましょう」
こほん、と空咳を一つしてから、警備員は声量を低めた。
「一〇二号室、個室になっています」
「一〇二……。ありがとうございます」
僕は礼をするのもそこそこに、大股でその個室に向かった。自分でもどうして焦っているのか、よく分からない。
「ここか……」
ドアの番号を辿りながら、僕はその個室に辿り着いた。そして思った。明らかに妙だ。
現在時刻は午後九時を回ったところで、重傷患者の多い他の病室は皆、既に消灯されている。
それなのに、どうして一〇二号室だけが煌々と明かりを灯しているのか。
「ここに、秀介がいるんだよな……」
僕は謎の焦りと慎重さの混じった不可解な思いを抱えつつ、一〇二号室の扉を開けた。そして、顎を外した。
「ほらほら、ウサギちゃんですよ~!」
秀介が、人形劇用のウサギのパペットを両手にはめて、謎の少女に向かって見せびらかしている。
「何それ! つまんないよ、お兄ちゃん! あたしそんなに子供じゃないもん!」
「じゃ、じゃあ……ほお~ら、今度はネコちゃんです……ってどわあっ!」
「う、うわっ!」
硬直していた時間が急に流れ出した。と同時に、秀介の顔が真っ赤に染まっていく。
「な、ななっ、なんで!? いや、どうして兄貴がここにいるんだよ!?」
「そ、それはこっちの台詞だ! 会議にいなかったから探して回ったら、こんなところで何やってるんだ?」
「見りゃ分かるだろ、救出した女の子の緊張を解いてあげるべく、誠心誠意をもってだな……」
僕は、ベッドの上でぺたんと座り込んでいる女の子を見下ろした。
そして、自分の身体の全器官が、その役割を放棄してしまったかのような感覚に囚われた。
心臓がぎゅっと締めつけられ、そこを中心に全身が圧縮されていくような、そんな息苦しさを覚える。かと思えば、一瞬で神経が再生し、雷に打たれたかのような衝撃が身体中を駆け巡った。
正直、こんな劇的な思いを抱いたのは初めてだった。
だが、一つ確かなことがある。それは、その心の揺さぶりが、目の前の少女によってもたらされたものだということだ。
これがまさか、一目惚れというものなのだろうか? そう考えるに至り、僕はようやく彼女が、洋館地下施設で救出した少女なのだと認識した。
「だからさ、兄貴! お、俺に下心なんてなくって! そりゃあこの子は可愛いけど! いや可愛い? あーもう違う! 俺は兄貴みたいなロリコンじゃない! そうじゃなくって……! あれ?」
ベッドの反対側でぶんぶん四肢を振り回す秀介。それを全く気にかける様子もなく、少女と僕は見つめ合っていた。
すると少女は、こてん、と重力に任せるようにして首を傾げた。
「あなた、だあれ?」
「……えっ?」
「あなたは、誰なの?」
ああ、僕のことか。
「ええっと、僕の名前は諸橋恵介。そっちにいる秀介の兄だよ」
「あに……お兄ちゃん?」
「うん、まあ、そういうこと」
僕は人差し指で頬を掻いた。何か動きをつけなければ、ずっと少女から目を離せない。そんな直感が働いたのだろう。
「あっ! 兄貴、お兄ちゃん呼ばわりされて照れていやがる! やっぱりロリコンなんだな!? いい加減認めろよ!」
「なっ! お前なあ、秀介! 僕にそんな趣味は――」
僕がぐいっと首を巡らせると、ちょうど少女もまた秀介の方へ振り返るところだった。
「じゃあ、秀介もお兄ちゃん?」
「ぶふっ!」
秀介は、まるで鳩尾にアッパーカットを喰らったような勢いで腰を折った。
「す、すげえ威力だな……」
「何の威力だよ、馬鹿! あと、僕はロリコンじゃない!」
こうして僕と秀介が終わりの見えない言い争いを続けていると、僕たちを交互に見ていた少女の顔が一瞬で晴れ渡った。
「ふふっ、あはははっ」
鈴の音が鳴るような笑い声。その無垢な響きに、僕も秀介も呆気に取られた。思わず顔を見合わせる。
「二人がいると、楽しい! 面白い! じゃあ、二人共あたしのお兄ちゃんになってよ!」
きらきらと輝く瞳。それを交互に向けられ、僕たちは互いに何も言えなくなってしまった。
ようやく僅かばかりの冷静さが、自分の脳みそに流れ込んでくる。それが自覚された僕は、今のうちにと少女の様子を観察した。
まん丸に見開かれた瞳は、美しいというより可愛らしいという印象を与える。鼻先はすっと通っていて、意外なほど小さな口が大人びた印象を与える。
だが、待てよ。
僕たちはこの少女について、何も知らない。採血検査したわけでも、レントゲン写真を撮ったわけでもない。
彼女は一体、何者なんだ?
「じ~……」
「ん? あ、え?」
「恵介お兄ちゃん、どうしたの? 難しい顔してるから」
いつの間にか、僕は少女に見つめられていたらしい。少女はずいっと身を乗り出して、僕を注視している。再び頬が火照ってくるのを止めるのは、今の僕には無理な相談だ。
取り敢えず、『この少女』と呼び続けるわけにもいくまい。きっと名前を与えられていないのだ。なんとかしなければ。
「うーん……」
「おい兄貴! この子が心配してるだろうが! さっきの調子はどうしたんだよ?」
「むーん……」
「ねえ、恵介お兄ちゃん?」
「うむーん……」
「兄貴、いい加減に反応を――」
「リナ!」
僕は組んでいた腕を解き、さっと顔を上げた。こちらから少女と目を合わせ、もう一度、二度と繰り返した。
「リナだよ、リナ! 君の名前は、リナだ!」
「どっ、どうしたんだよ急に? 頭イカれたのか?」
「似てると思ったんだよ、理恵奈に!」
「理恵奈……?」
「ほ、ほら! お前は小さかったから覚えてないだろうけど、父さんや母さんと五人で近未来展覧会に行っただろう? そこで撮ったんだよ、理恵奈の写真を!」
「はあ? 写真って、その時の瞬間しか撮れねえじゃんか!」
「違うんだ」
僕は頭の中を整理し、当時からして十五年後の日付を述べた。ただし、写真上部には去年の年月日がプリントされている。
「それって……!」
「そうだよ、AIが、赤ちゃんの写真から十五年後の姿を予想してプリントしてくれる、って企画があったんだ。それに理恵奈を――僕たちの妹を撮ってもらったんだよ!」
「その理恵奈に似てたから、兄貴は彼女のことをリナ、って命名しようとしてるのか?」
「ああ。理恵奈は幼くして……」
「待て」
秀介はざっと右手の掌を僕に突き付けた。
「それ以上言うな。いろいろ思い出す」
「う……うん、そうだな。すまない」
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