015 優しい手(前編)


 短く切った茶髪に、それと同じ色のシャツを着たやや筋肉質な女性。唯一のアクセサリである金の腕輪をした左手には、イチイの木でできた弓が握られている。


「にしても、何かあったら頼れと言っただろ?うちにくるのが随分と遅かったじゃないか、コウスケ。」


 彼女はそういって床に転がった椅子を足で起こし、どっかりと腰を下ろした。


「ま、座りなよ。どうせろくなもん食ってないんだろ?」


彼女は銃を向けるコウスケにウインクをしながら、その真っ白な八重歯を見せて笑う。


「はぁ。お前ってやつは……」

「ううん?そりゃあ、警戒はしておかないといけないってもんだろう?あたしは元テッラ王国の軍人だ。あんたが事を起こした時点で、あたしも捜索対象になるのは分かりきっているしな。」

「それは……」

「あーやめろやめろ!すーぐに辛気臭い顔になるんだから、あんたは。悪い癖だよ?」


 彼女はそういうと穏やかな笑みを浮かべ、優しく言った。


「さ、そこの嬢ちゃんも、座りなよ。見るからにおなかが減っている顔をしているよ。」

「えっ!?」


 フレイヤは頬に手を当て、恥ずかしそうにほっぺをつねる。


「そ、そんな顔をしていたかしら?」

「ああ。それはもう、この部屋に入った時からおなかが鳴っていたからねぇ。」

「!」


フレイヤは慌てておなかを抑え、チラリとコウスケを見る。コウスケは銃をしまい、フレイヤに静かに首を縦に振った。


「じゃ、じゃあ。お言葉に甘えるわ。」



 差し出されたのはビーフシチュー。溶岩のように熱く輝くそのシチューに、フレイヤは目を輝かせた。


「んー!おいしい!」


彼女の口よりほんのちょっぴり大きな肉は一度噛むだけで蕩けだし、口いっぱいに肉汁が溢れ出す。不揃いに切られた野菜は丁寧に煮込んであり、その中心にまで味が染みこんでいた。

 それまでコウスケが持っていた非常食しか口にしていなかった彼女は、夢中でそのシチューを口に運んだ。そして最後の一滴まで飲み干して、興奮した様子でエミリアに言った。


「すごいわすごいわ!こんなにおいしいビーフシチュー、初めて食べたわ!!」


ひまわりのような笑顔を見せるフレイヤに、エミリアも笑って応える。


「あはは。そりゃあよかった。用意しておいた甲斐があったってもんさ。これはあたしの得意料理──というか、これしかできなくてね。他の料理はからっきし。子どもたちにいったい何度苦言を呈されたことか。」

「そうなの?こんなにおいしいお料理を作れるのだもの、他のものもおいしいと思うのだけれど。ええと……」

「エミリアだ。気軽に、エミリアお姉さんと呼んでくれ。」


 フレイヤは自身の名を名乗ろうとして、一瞬口をつぐんだ。自分を知る人はいないが、父の名は世間に知れ渡っている。


──“犯罪者“として。


それが、彼女の顔に影を落とした。


「……ええと、わたしは──その、フレイヤよ。」

「そうか。よろしくな!」


エミリアはそういってから、ずっと無言でいるコウスケに向かって指をさす。


「あ。今『お姉さん』なんて歳じゃないって思っただろ。」

「……俺は何も言っていないが……」

「あんたの思考なんて顔が見えてなくてもわかるっつーの。あんたとは何年来の付き合いだと思ってるんだい?それとも、あたし以上にあんたのことを理解している奴が、この世界にいるのかい?」

「……」

「あ。まーたそうやって目を逸らす。フレイヤ、いいかい覚えておきな。こいつの目を見て話をしている時に目を逸らされたら、それは本音を言い当てているときだ。」

「……」

「な?また目を逸らした。」

「お前な……」


 フレイヤは不思議だと思った。この家に入るまでずっとコウスケは張りつめた表情をしていた。いつも前を見据えるその視線は難く、何かを背負っているかのように歯を食いしばっていた。けれど彼女と会話をするときだけは、本当に少しだけではあったが、その凍えた頬がわずかに雪解けていた。

 エミリアはシチューを食べ終えるとスプーンを静かに置き、コウスケに言った。


「で?何があったんだ?首都【グラズヘイム】で国宝を盗んだと、伝令が街に来て叫んでいたが……」


エミリアはチラリとフレイヤを見る。


「何を持っているのかと思ったが、まさかこんなかわいい女の子を連れているだなんて、想像もしていなかったよ。まあ、国宝級にかわいい子なのは認めるけどね。」

「!?」


唐突な言葉に、フレイヤは頬を赤らめる。


「あはは。素直な子だねえ。いい!あんたは将来絶世の美女になるだろうよ。『おとぎ話』に出てくる女神さまと同じ名前をいただいているんだ。あんたのお母さんは、いい名を付けたよ。」

「……ぁ」


 フレイヤの心が、少しだけ縮んだ。

 そして彼女は一呼吸おいてから、エミリアに丁寧にお辞儀をした。


「ありがとうございます。エミリア──お姉さん?」

「──」


 エミリアはその悲痛な笑みを見て、”何か”を察した。だがそれを口にすることなく、彼女は笑顔を返した。


「はは。いいよ、無理しなくて。あたしはもう38のおばさんさ。気軽にエミリアと呼んでくれ。そっちの方が、話しやすいしね。」

「そうなの?でも、なんだか、目上の人を呼び捨てにするのは気が引けるわ。」

「なら、エミリアさんでいい。」

「わかったわ。」

「うん。それでいい。で……」


エミリアは視線をコウスケに移す。


「何がどうなっているんだい?というか、あたしのところに来たんだ。何か助けてほしいってことだろう?何でも聞いてやるから、言ってみなよ。」

「……」


 コウスケは彼女の瞳を見つめた。

 黒い眼が、まっすぐ自分を見つめ返している。そこに映った暖炉の炎は力強く輝き、その光にコウスケは息をのんだ。

 それは、覚悟を決めた瞳だった。きっと彼女はコウスケが何をしに来たのかを、薄々気が付いていたのだろう。それがどんなに過酷なものかを、承知のうえで。

 コウスケは一度強く唇を噛み、そして言った。


「──エミリア。協力してほしい。俺達がテッラ王国に入るために。」





「……なるほど。国宝魔法術式『ビフレスト』、か……」


 エミリアは一人それを寂しそうな表情で何度か反芻してから、小さく息を吐き出した。


「で?そいつを盗んだはいいが戦闘で負傷して、逃亡した先でたまったま狼に襲われていた女の子を助けて、巻き込んじまって今ここに至るって?」

「……あ、あぁ……」

「いや、お前馬鹿なのか?あれだけ他人を巻き込みたくないって言ってたやつが、なーんでよりにもよって、こんなかわいい年端もいかない女の子を巻き込んじまうのかねぇ!!あたしに面倒でも見ろってのかい?」

「それは……本当にすまないと、思っている……」

「────」


目を逸らしたコウスケに、エミリアは小さくため息をつく。


「……全く、あんたのことはよくわかっているから、どうせなんか事情があんだろうけどさ。……あたしは、それ・・だけは、もう──」

「?」


 最後の言葉が聞き取れず、フレイヤは首を傾げた。そんな彼女に、エミリアは笑って言う。


「あぁ。気にしないでくれフレイヤ。こっちの話さ。」

「?」

「まあ、それはあとで考えるとして……ああいや、先に一つだけ確かめたいな……

 フレイヤ。」

「え?」


 フレイヤは優しい眼差しを見た。

 眠りを包み込むような穏やかな夜の瞳が、一人の少女に向かってそよ風のように語りかけている。

 エミリアは椅子を離れ、床に膝をついてフレイヤの手を取った。


「フレイヤ。あんたを傷つけてしまうかもしれないが、それでもあたしは1つだけ聞いておきたい。」

「な、なに?」

「本当に、お母さんとお父さんは──もういないのかい?」

「!」


 一切話をしていないのに自分の両親がいないことを悟った彼女に、フレイヤは驚きを隠せなかった。

 フレイヤがニョルズの娘だと言うことを、コウスケは話さなかった。それがどうしてかフレイヤには分からなかったが、彼なりの気遣いなのでは、と彼女は考えた。父ニョルズと同じ反逆者という罪を背負ったが故の、彼の不器用な優しさだと──。

 そうであるにも関わらず、彼女は何故自分の両親がいないことを言い当てたのか。考えても分からなかった。

 けれどエミリアの眼はどこまでも澄んでいて、決して悪意のあるモノではなかった。

 


「……ええ。もう、いないの。」

「……」


 窓が小さく、風に揺れた。


「……そうか。悪いことを聞いてしまったね。ごめんよ。」

「ううん。気にしないで。」

「……」


力なく笑う彼女を見て、エミリアはその大きな手をフレイヤの頭に乗せた。


「あんたは、強い子だね。

あたしはあんたみたいな、戦争で親を亡くした子供たちをたくさん見てきたけれど、あんたほど強い子は見たことがないよ。」

「……」


 フレイヤは彼女の顔を見ることはできなかった。

 ただ、彼女のその手の平がとても温かいと、そう感じていた。

 

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