第29話 リク先生の過去

 スタートダッシュを決めたのは、もちろん運動能力に秀でた体育教師の恩田だった。ここからタカヤがどれだけ巻き返すことができるのか。


(うわ……か、かなり難しいけど愛の力でなんとか乗り切れタカヤ! お前が負けたらキエナ先生はどうなるんだよっ。あの恩田と付き合う姿なんて想像できないぞっ)


 キエナ先生……何考えているかわからない神出鬼没。ふとすると幽霊みたいな先生。友達であるリク先生のことをずっと心配している、良い先生だ。

 だから、せっかくなら。幸せになる道に進んで欲しいと思う……いや、恩田と一緒だと絶対に不幸だと言うわけじゃないんだけど。


「……うらやましいなぁ、キエナは。タカヤみたいな純粋なヤツと一緒にいられて」


(……リク、先生?)


 不思議なことをつぶやく先生を横目でチラッと見る。リク先生はグラウンドを見ながら、さびしそうに笑っていた。


「あいつもずっと気にしていたから。俺の亡くなった恋人のこと――清宮の兄のこと」


 リク先生は突然、語った。恋人が清宮の兄だという過去を。


「ユウジ、知ってるんだろう。俺が清宮の兄と付き合っていたこと」


「あ……」


 先生の問い。それは鋭いもののように、自分の胸に刺さる。別にやましい気持ちがあるわけでもないのに答えることができない。何かを口にするのが急に怖くなった。

 ユウジはグラウンドを見つめたまま固まる。そんな自分を見て先生は小さく笑った。その笑いには「そうだよな」と確信したという含みを感じた。


「……今から八年くらい前か。俺は十五歳で高校に上がったばかりだった。俺は中学で知り合った清宮の兄貴とは同級生で、彼を好きになって告白し、彼とずっと交際をしていた。高校も同じ場所を選んで、これから先も一緒にいようなって話していたんだ。あ、ちなみにキエナも中学からの同級生だ。だからキエナはずっと俺達のことを見ていたよ」


 グラウンドを走るタカヤに目を向けながら、耳はリク先生の話に集中する。


「高校生の入学式を終えた日のことだった。俺はあいつと喧嘩した。なんでもない些細なことだ、ちょっとすれば仲直りするぐらいのな。だがその日は気が立っていたのか、あいつは学校を飛び出して、どこかに走っていなくなってしまったんだ。そして車に跳ねられ、死んでしまった」


 視界の端に映るリク先生の拳がギュッと握りしめられた。


「俺は後悔したよ。あの時、喧嘩しなければ……と、ずっと思っていた。けれど後悔しても、あいつともう言葉を交わすことはできないし、何を言うこともできない。俺はずっとその時のことを引きずって生きるしかなかった」


 リク先生はフフッと笑いをもらす。しかしそれは無理に笑っているような気がする。


「だから俺は約束した。あいつはいつも俺と喧嘩したあと、仲直りをする時に言っていたんだ。お前の笑ってる顔を見るとホッとする……だから泣かないで笑っていてくれって」


 タカヤの走る姿、話す先生の声。どちらも気になり、自分の脳がどちらの情報も得ようとフル回転している。無理しているせいか呼吸がだんだんと苦しくなってくる。


「ユウジ、依存って、どう思う?」


 不意に放たれた重々しい言葉。ユウジはその言葉を発した方に視線を向けた。

 その時のリク先生の表情は、この三年間で見たことがない、初めての表情だった。

 笑っていない――いや、昨日も恩田と会話をしていた時は笑ってはいない真剣な顔をしていた時はあったけれど、それとは違う。


 周りにあるもの全てを遠ざけ、一定の距離を置いたところから冷静に物事を見ているような、見ていて怖いと思う表情。背筋が一気にゾッと冷えるようだ。


(い、依存っ? なんだよそれ……先生が言うには似合わない言葉だろ……?)


 先生は初めて見せる“無表情”のまま、話を続ける。


「……例えばだ、好きな人ができたとする。その相手がいないと自分はもう生きていけない。何もすることができなくなる。それが依存だ。そういう時って、もし相手がいなくなってしまったらと思うと怖くならないか」


 緊張が走り、ユウジはゴクッと喉を鳴らした。なんて答えたらいいんだろう。でも確かに誰かがいないと自分はもうダメだと思う時はあったかもしれない。


(俺の……俺の場合はマリアだ……)


 マリアは自分が十歳の時からネットの中ではあるが自分を支えてくれた大切な人だ。ここ数日はあまりつながりが持てないでいるけれど、マリアがいなくなると思うと、自分の大切なものがなくなったような感覚に陥る。夜が怖い、一人で不安だ。どうしたらいいのか、わからなくなる。


「俺にとって清宮は初めての恋人だった。家族がいなくなり、施設で育った俺にとっては中学で出会って中学で三年間を過ごした大切な人……俺は彼がずっとそばにいるもんだと思っていた。だから、いなくなった時の喪失感は世界で自分が一人だけになったような感じだった。昼間の明るい時はまだいいけど、夜はやたらと怖かったよ」


 それは自分と同じだ。夜がさびしくて寒くて誰かにいてほしいと、いつも思っていた。

 だからマリアとのつながりは自分にとって、ここまでの人生を生きてこれた糧みたいなものだ。

 では誰もいなくなってしまったリク先生はそこからは誰とつながったのだろう、誰を頼りにここまでこれたのだろう……。


「だから俺は、もう依存はしないと決めたんだ」

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