第17話
「あの――」
彼女はおずおずと言った。
「本当に済みませんでした。弟にはよく言ってきかせますから、どうぞもう……あの……」
口ごもった。もう行ってくれと言いたいようだが、丁寧な言い回しが出てこないのだろう。
「そうはいかねえ」と清二は言った。
このまま少女を解放する気はとうに無くなっていた。
えっ? という顔で、少女が清二を見上げた。
「君はここで何をしようとしていた?」
強めに詰問した。少女の顔が強ばった。
「死のうとしてなかったか?」
動揺して少女は目を伏せた。やはりだ。
清二は黙った。この手の娘の場合、こうしていれば、すぐに自分から喋り出すだろうという読みがあった。この辺の駆引きには、文字通り大人と子供の差があった。
おずおずと目が上がり、またすぐに伏せられた。逃場はないと観念したようだ。そう思い込むところが可愛い。
「はい……」
消え入るような声が返ってきた。
「仰る通りです」
清二は内心しめしめと思いながら、この場に相応しく、重々しく頷いた。
「だから、君にその気がなくなったと確信するまで、立ち去る訳にいかねえじゃねえか。それが大人の義務だ」
狡猾な理由づけだった。
「よかったら、死にたくなった訳を話しみなよ?」
男の子が間に入り込んできた。
「姉ちゃん、帰ろ?」
姉のスカートの裾を引っ張りながら、上目遣いに清二を見た。幼心にも、姉が困っていると察したのだろう。
清二は上衣のポケットから菓子を取り出した。正方形の薄い板にしたチョコが体裁よく小箱に入っている。朝小百合の冷蔵庫から失敬してきたやつだった。
「ちょっと姉ちゃんと話があるんだよ。これ食べてな」
チョコを手にして、男の子は姉の顔色を窺った。
女の子は少し微笑んで頷いた。躾のいい子達だ。知らない人から物を貰ってはいけないと言われているのだろう。
これで少女は少し心をゆるしたようだった。
「お金を落としてしまったんです」と打ち明けた。とたんに顔が曇った。
「母があんなに大事にしていた着物を質屋に入れたというのに……」
「幾らだったの?」
「それが……三千円でした」
「随分安いな」
思わず正直な感想を口にしてしまった。
少女は気を悪くしなかった。そんな余裕もないのだろう。
「随分古いから、それしか出せないって言われました」
質屋は子供だと見くびったようだ。格好を見て足元を見たのかもしれない。
「でもそのお金がないと、家は困るんです」
「そうか」
「この付近で落としたと思って、何度も行ったり来たりしました。このままじゃ帰れないし、どうしていいかわからなくなって……」
「それで思い詰めたんだな?」
「はい。でも思いきれませんでした。意気地がないんですね」
「そんなのを意気地があるとは言わねえよ。弱虫って言うんだ」
少女は曖昧に笑った。寂しそうな笑いだった。気持ちの整理がついていないのだろう。
清二は財布を取り出し、千円札三枚を抜き取った。
「君のよくない考えを、おじさんが買った」
少女の顔が険しくなった。
「何ですか、これは?」
「取っときな。そしてつまんねえ考えは忘れんだ」
「あたしは物乞いじゃありません!」
少女は眦を決した。プライドを傷つけたようだ。それにしても〝物乞い〟とは、随分古い言葉を使う。親の人となりと教養が窺われる。だが経済状態は、幼い少女がそんな言葉を即座に口にするくらい、それと紙一重のところにあるのだろう。
「人は額に汗して労働し、働いた分だけを得て、それに満足しなければいけません。不労所得は神の御心に反します!」
また堅苦しい言葉が出てきた。おやおや、と清二は思った。
「悪かった。君を助けようとばかり思って、却って気持ちを踏みにじっちまったようだ」
少女の全身から力がふっと抜けた。
「いいんです。あたしこそ生意気な口をきいて済みません」
「クリスチャンか」
「はい」
「カトリック?」
「はい。よくお分かりですね?」
「長生きしてるからな。君だって長生きしなきゃいけねえぞ。死んだら親御さんが悲しむぜ」
「はい」
少女はうな垂れた。
「クリスチャンは自殺しちゃいけねえんだろ?」
「はい。それもありました」
ふっと無表情になった。辛い現実がまた頭をよぎり、沈鬱な葛藤に再び襲われたのだろう。触れられそうなところまで来ていた心がまた遠ざかりそうだった。
「とにかくここは離れようぜ。いいな?」
「はい……」
「力はありそうだな」
「えっ……?」
「一寸おじさんを手伝ってくれよ。すぐそこに呑み屋、あんだろ?」
「はい……?」
車を停めた川端の道を隔てて、一軒の居酒屋がある。そこが清二の今夜の塒だった。
三十半ばの、現在は独身の女性がオーナーの居酒屋だ。女性は今の時間は所用で出掛けていていない。
清二は女性に頼まれた食材をスーパーで買い込んで、車に積んで運んできたところだった。数百円の野菜やスナック菓子などが、申し訳程度の加工を施されて、少量に分けられ、同じくらいの値段の小鉢やつまみに化けるのだった。
「あそこに積み荷を運ばなゃならん。量が多くてさ。年寄りにゃこたえるんだ。手伝ってくれると助かる。君も少し体を動かすと気持ちも晴れるぞ?」
「そんなことでしたら……」
相変わらず浮かぬ顔だが、嫌がらずに承知してくれた。
実際結構量はあった。
少女は清二が見込んだように力があった。若い肉体がきびきびと軽やかに動く様は見ていて気持ちがよかった。
実際手伝わせてよかったようだ。青ざめていた顔に血の気が差し、表情がいきいきとしてきた。
「おじさんの家なんですか?」
キャベツの入った袋を運びながら訊かれた。
「俺んちじゃねえよ。でもよく来てる。しばらく居る積りだよ」
「へえー、家は別にあるんですね?」
「ああ」
「どうして家に帰らないで、人の所に泊まるんですか?」
「仕事の都合なんだ」
「へえ」
別に疑っている風はなかった。こういうところがうぶでいい。
「君はどのあたりに住んでんだ?」
「F地区です」
「F地区――ああ……」
F地区には確か、この地方には珍しい教会があった。その辺りに住んでいるのだろう。
「まだ名前きいてなかったな? 俺は榊清二っていうんだ。榊って漢字は習った?」
「分かります。榊財閥と同じ名字なんですね」
「そうだ」苦笑した。
「清二は清いに二だ」
「あたしは本田アメリーと言います」
「アメリー?」
「はい。父がフランス人なんです。もう亡くなりましたけど」
「そうか」
少女の顔をあらためて見た。ついでに顔色を見た。
表現に翳りはなかった。気持ちが落ち着くだけの時間は経ったのだろう。
「母ちゃんは息災なのか?」〝息災〟という言葉をアメリーが知っているかどうかを怪しみながら訊いた。
「このところ寝たきりなんです」
「……」
勤めを辞めた理由と貧窮の理由がわかった。看病のため、アルバイトすらままならぬのだろう。この若さで色々苦労しているのだ。
「弟は
その弟も小さめの袋を一生懸命運んだ。
運び終えた時は自然に顔を見合わせて笑顔がでた。
「ありがと! 助かった」
「いえ。お役にたてて嬉しいです」
「とんだ道草食わせちゃったな。母ちゃんそろそろ心配してっかな?」
この一言でたちまち少女は現実に引き戻された。すっと笑いが消えた。
「……じゃ、あたし達帰ります」
「待て」
清二はまた財布を取り出した。
今度は五千円札を抜いた。
「ほら」
少女の顔がまた硬ばった。
「額に汗して働いた報酬だ。少ねえけどとってくれ。報酬って分かるか?」
「はい。でも……」
少女は困惑していた。
「言ってる意味、分かったんだろ?」
「はい……」
「ほんとか? いいか。資本主義なら報酬は当然だ。資本主義、学校で習ったろ?」
「はい」
「だったら堂々と受けとれよ」
「でも、こんなに……」
「多いか?」
「はい」
「チビも活躍したからな。二人分だ。遠慮すんな。貰ってくんなきゃ、俺が困る。君を只で利用したみてえじゃねえか……」
「わかりました。有り難く頂きます」
少女はまた九十度に頭を下げた。男の子も見倣ってピョコンと頭を下げた。
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