番外編 その二

悪役令嬢は温室にて ~そのお芝居、乗りましょう

「婚約をなかったことにしてくれないか」


 燦々と日が降り注ぐガラス張りの温室で。

 真っ白なテーブルクロスをかけられた円いティーテーブル、私の正面に座った線の細い美少年は、私の目を見て穏やかな口調でそう告げた。


 これから用意されるであろう紅茶を飲む前に告げてくれてよかった。でなければ白いクロスに紅茶色の染みを作っていたかもしれない。


 男性ならここで小さな咳払いでもするところだが、あいにく淑女たるもの、そのようなはしたない真似はできない。

 テーブルの下で握りしめていた扇を取り出し、広げて、目から下を隠しながら視線をやや下に落とす。傍目には伏目がちの物憂げな美少女のできあがり、だ。

 ため息ひとつ吐くのでさえ、音を立てないように優雅に、美しい所作で。

 そう厳しく躾けられていた。私も、目の前の相手も。


 私を困らせたことなど分かっているだろうに、発言主は気遣わしげな視線を送ってくる。彼の目を見なくてもそれくらい分かる。優しい人だ。

 まあ、愛してはいないけど?


 私は公爵家の一人娘。

 相手はこの国の王子様。


 ごく普通の婚約を結び。

 ごく普通の政略結婚をするはずだった。


 そもそも今日、王子に呼び出されたあたりからおかしいなとは思っていた。

 王城ではなく、かといって公爵家の城でもなく、王家が所有している郊外の狩猟用の屋敷を指定してきたあたりだとか。その中でもわざわざ、中庭にしつらえられた小さな温室を案内されたときだとか。こんな狭い場所、護衛もメイドも信用のおける最低限の人数しか伴えない。身の回りの世話をする侍女を始め、連れてきたほとんどを広い応接室に置いてこざるを得なかった。

 ここの温室にはもうひとつ利点がある。日を取り入れ風を避けるためのガラス張りの構造は、盗み聞きをしようと壁に張り付く第三者がいれば丸見えである。中庭にある、ということは四方八方に不審者がいないか室内から監視できる。

 ごくごく限られた顔ぶれだけに伝える秘密裏の話をするのにうってつけなのだ。


 表向きの呼び出し理由は「たまには少人数で森の中を散策しないか?」。散策と言いつつ温室でお茶。貴族的には、お忍びデートである。……デート? これが?

 まさか仲良しをアピールするようなお忍びデートで「婚約をなかったことに……」などと告げられるとは、さすがに予想外だった。


「……理由を、伺っても?」


 扇を少し下げて、私は口元に極上の笑顔を浮かべてみせた。


 危ない、危ない。ここでの会話を盗み聞きするのは難しかろうが、ガラス張りの温室の外から「表情をうかがうこと」はできる。不満顔などしていたら「何かありました」と喧伝しているようなものではないか。なにせ不真面目なメイドというものはいつだって主人のゴシップを狙っている。仮にも王家や公爵家が雇い入れたメイドにそんな性根の者などいないと信じたいが、予防策を取るに越したことはない。


 問いかけながら、私は婚約を白紙にされる理由を必死に考えていた。


 他に好きな女ができたとか?

 お坊ちゃんな王子は、私のように気が強い女はお好みでなかったのかもしれない。

 だがその理由では「弱い」。

 王家と公爵家の間で交わされた婚約は好き嫌いでどうこうできるようなヤワな契約ではない。

 うちの家に何か政治的な不備でも見つかった?

 うちに、私に隠された借金があって首が回らないとか?

 それともどこかの闇組織が摘発されて、うちとの繋がりが公になったとか?

 言っておくがうちだけではない、王家だって闇組織を抱えている。貴族にはそういうことを担当してくれる部署が必要になってくるのだ。どこも大きな家はそうだ!(多分)

 そうでないなら裏帳簿でも嗅ぎつけられたか。いやこれもそこそこ大きい家ならどこだって……。


「今、何を考えてるのか、その美しい微笑みの向こうに透けて見えるようだよ。貴女との付き合いは長いんだ」

「あら殿下。美しいだなんて、そんな」


 それは、私が腹黒なのは分かっていますよ、と言ってるも同然です、殿下。

 あなたが顔と優しいだけが取り柄の人だから、心配した国王陛下が私のように計算高い女を婚約者にしたのだと思いますよと言ってやりたい。不敬罪になるので絶対に言えないが。

 だから代わりに、簡潔に。


「で?」


 あくまで笑顔は崩さず、強めの口調で先を促す。

 そういえば、我が家の失礼な新人メイドが「お嬢様の笑顔からは闇がダダ漏れて見えます」と宣っていたが。

 この国の高貴な女性ともなれば誰しもこれくらいの芸当をしてみせるものだろう。できない令嬢とはお友達にもなれない。


 王子は、私が強めに促してようやく「人払いを」と言い、残ったわずかなメイドたちまで追い出した。王家の護衛はさすがに追い出せなかったが、王家の格下である公爵家の護衛は全員追い出されてしまった。うちの護衛は結局、外の、丸見えのガラスの向こうで「うちのお嬢様になにかあったら承知しない」と気色ばんでこちらを睨みつけている。

 メイドを追い出してしまったらお茶の給仕はどうするのだ、と思っていたら、なんとまあ。

 王子が立ち上がってテーブルの傍らのティーワゴンからカップやらポットやらを取り出し、手ずから茶を注いでくれるではないか。


「どうぞ」

「い、いただきます」


 扇はテーブルの上に。

 カップを持ち上げ、一口。

 あ、美味しい。意外な特技を見た。


「……私は婚約を白紙にする理由を伺いたかったのですが、まさか、メイドを下がらせてまでしたかったことが紅茶を淹れることだった、などとはおっしゃいませんよね?」


「それはなかなか荒唐無稽な理由だね」


 ではなぜ。


「でも、今から私が言う婚約解消の理由もなかなか荒唐無稽なので覚悟して欲しい」


 ごくり、と私は紅茶を一口分、喉に流し込む。


「君ではない、別の女性と結婚するために」


 まさかの「他に好きな女性ができたんだ」パターン!

 しかし、言うほど荒唐無稽な理由だろうか?


「殿下。もしや、私が、殿下に懸想していて他の女性に目移りするなんてありえない、と泣くとか……そういう方向性をお考えになっておられました?」


「いいや。微塵も」


「安心いたしました。さすがに付き合いが長いだけはございます」


 そういうと、王子はふふっと可笑しそうに笑った。

 穏やかで美しくて優しい、童話の世界から抜け出してきたような金髪碧眼の王子様。

 殿方としては愛していないけれど、弟のような親しみは持っていた。同い年であるが。


「城の占星術師がいうには来年だそうだ。さる男爵令嬢が私に接触してくる。私はその彼女と恋仲になり、そうだな。今から三年後あたりには結婚式を挙げていると思うよ。その前年、私の十八の誕生祝いのパーティで私は君に『婚約を破棄する』と、その男爵令嬢の腰を抱きながら宣言する予定だ。そう……この芝居にタイトルを付けるなら『私は真実の愛を見つけたんだ』とか、どうだろうか?」


 絶句。

 確かに荒唐無稽だ。


「ええと? その、先ほど占星術師がどうのとおっしゃいましたが……まさかそれを真に受けておられて……?」

「その通り。正確には真に受けているのは私ではない。父だ」

「では……私との婚約の撤回は……陛下もお認めになっていることなのですか」


 王子はそこで一拍おいた。


「その男爵令嬢はマレビトだそうだ。……知っているかい、マレビトなる存在を」


 息を呑む。


「存じ上げております」


 いらえを返した。……声は震えていなかっただろうか、ちゃんと普段通りにできただろうか。


 この世界には時々マレビトと呼ばれる人が現れる。

 マレビトはこことは違う世界に生きていた人たちで、私たちが知らない知識を授けてくれる。

 そういうのを、マレビト同士の言葉で「異世界転生」とか「異世界転移」というそうだ。


「その、くだんの男爵令嬢は、何か特別な知識をお持ちだとか……そういう理由でしょうか?」


 マレビトは本人がそうだと言わなければ、おいそれと発覚するものではない。

 なのになぜ城の占星術師みたいな偉い人がマレビトを特定するのか。

 しかも婚約解消。私の名誉に傷を付けてまで、王子の婚約者に据えようとするなんて。


 ……いや待て。「婚約解消」だったか? よくよく先ほどの会話を反芻すれば、婚約の解消ではなく「破棄する」と言わなかっただろうか? 一方的に契約を破り捨てると? よりによって王家と公爵家の決めた契約を、たかが一個人の私欲のために!? ありえない!!


 ぐるぐると考え続ける私に、王子はなぜかとても苦しそうに口を開いた。


「占星術師が言うには、彼女本人ではなくいずれ彼女が生む子供が問題なのだそうだ。その子供は、いずれこの国を襲う災厄に勝利する者となるだろう、と」


「それ、は」


「たかが男爵令嬢だ。いずれ同等の貴族に嫁ぐことだろう。本人が望めば平民にも下れる。国外にも出ようと思えば嫁ぐことができる。どこで英雄となる者が生まれるか分からない」


 納得した。

 つまり王子は自分でその男爵令嬢と結婚して子供を作って、のちに英雄となるその子を国の管理下に置くつもりなのだ。正確には国王や重臣たちがそれを王子に強要しているのだろう。


「その、英雄、ですか……災厄に勝利する、とは、我が国を襲う災厄とは人災、あるいは人の手には負えぬ敵、ということでしょうか」

「少なくとも父はそう解釈した。そして恐れた」

「恐れ……」

「災厄のほうではない。英雄のほうを恐れたのだよ、それも酷く個人的な理由でね」


 はっ、と、脳裏に閃くものがあった。


「英雄に……王家を乗っ取られる心配、ですか」

「さすが、我が婚約者殿は聡明なことだ」


 王子は、穏やかな態度を崩さないままだった。


 私は普段からは考えられないくらい優雅さを欠く動作で、カップを手にして紅茶で少し唇を湿らせる。


 もし王家の血筋以外に英雄が生まれてしまったら、国王の懸念はおそらく「当たる」。

 ならばその子供、確実に自分の血を引く者であればよい。

 そのために王子を駒にするのだ。

 私との婚約を白紙にしてまで。

 王家には今、王子と呼ばれる存在は目の前の一人しかいない。


 普通なら、国を揺るがすと占いで出て分かっているのならそんな子供、成長させなければいい。だがそうなってしまえば将来、理由の分からない「災厄」とやらに勝利できない。そういう仕組みなのだろう。少なくとも災厄に勝利「させる」まで、英雄は生かしておかねばならない……。


 けれど我が国の第一王子の妻、ということは、未来の王妃様。

 男爵令嬢風情に務まるようなものではないのだ。

 愛妾あたりが妥当だが、おそらくマレビトなる男爵令嬢は承知しないだろう。


 なにより、この国では愛妾が生んだ子には継承権がない。


 王子は穏やかに微笑んだ。


「生まれてくるはずの英雄に王家の血を入れ、そしてそのまま王になってもらうためには正嫡でないと困る。マレビトの男爵令嬢を正式な妻に迎える一番の理由が、そこだ」


「ならば、正式な妻……王妃は理由を付けて奥に隠して、代わりに高貴な血筋と教養を備えた愛妾を立てて表に出しますか。少なくとも国外に出して恥ずかしくない貴婦人でなくば他国から舐められます」


「ふむ。では貴女が立ってくれる?」


「ごめんこうむります」


 おっと、つい本音が。

 致し方ない。私は一夫一妻主義だ。正式な妻と一人の殿方を分け合うなど、まして私のほうが格下の立場に甘んじるなど絶対に嫌だ。

 そんなこと、付き合いは長いのだから、気づいているだろうに。


 しがらみの多い家に生まれて、いつかは誰かと結婚せねばならないことはお互い理解していた。

 そんな似た者同士だったからこそ、愛はなくても同志にはなれると信じていた。

 いつか夫婦になったら力を合わせてこの国をよくしてゆこうと。


 目の前にいるこの人は。

 本当に責任感だけで愛してもいない、それも低い身分の女を娶り、子を成すつもりなのだ。

 国王や重臣たちに押し付けられて。

 彼は……私たちはまだ十六だというのに。


 いや、それをいうなら私との婚約だって似たようなものか。国王や、父を含む重臣に押し付けられ、義務と責任感だけで結婚して子を成すつもりなのは同じ。その男爵令嬢と私の差は身分くらいなものだ。


 私はカップの代わりに扇を手に取った。笑顔を作る余裕さえない。広げた扇に額近くまでを隠す。

 王子はというと、それでも声音を変えることなく、どこまでも優しい声で続けた。


「そのマレビトは、占星術師によれば私に執着しているそうだよ。彼女にとっての遊戯の上り……ゲームのトゥルーエンドとは『王子様と結婚する』だそうだ」


「遊戯、ですか……他人の人生を、その女は遊びと言いますか」


 ぎりっと扇を持つ手に力が入る。


「占星術師が言うには、ある程度、星が指し示す通りに従ったほうがよいと。運命力というか強制力が働くのだそうだ。下手にそれに逆らって、別のところに予想できないひずみを作るよりマシということだね。それが先ほど言った『芝居』に繋がる。婚約破棄の一幕は、衆目の中、君を貶め、それが男爵令嬢を喜ばせることになる……らしい。私には意味が分からないが」


「分かるような気がいたします。私も女ですので。世の中には、自分の気に入らない人間が貶められているのを見るのが嬉しくてたまらないという性癖を持つ者がおりますの。まったく自分に得などないのに、自分より恵まれている他人を引きずり降ろしてやりたい性癖とか」


「そう言い変えてみれば、重臣たちにもいる気がするな。男女は関係なさそうだ」


 王子の声が、うん、と納得したような声音になった。


「占星術師は男爵令嬢の目的を遊戯と表現したけれど、こちらだって芝居のつもりなのだからね。私はその芝居の相手役を精一杯努めようと思う。……その前に貴女に事情を説明しておきたかった」


「そうですわね。いきなり男爵令嬢風情が王子に接近するだなんて、普段の私でしたら絶対に止めておりましたわ。ああ、でも、お芝居でしたら私の立場上、多少はその男爵令嬢に苦言を呈したほうがよろしいのかしら」


「遺憾ながら」


「……なるほど」


 私は顔を上げ、扇をパチンと鳴らして畳む。


「ではそのように努めましょう。王子の婚約者であることを鼻にかけた高慢ちきな公爵令嬢の役、見事演じてみせますわ。そしてその女は、婚約者のいる殿方を己の魅力で振り向かせたという満足感を得るわけですね」


 本当に茶番だ。


「意趣返しくらいはさせてくださいませ。衆目の中、一泡くらいは吹かせてやりとうございます」


 きっぱり言い切った後、私は自然と目を伏せていた。

 元々乗り気でなかった婚約とはいえ、これから私は自分の人生に瑕疵を付ける行為に手を染める。芝居だとは明かせない。王族から婚約を破棄された女として一生、赤の他人から貶められるだろう。

 貴族の女は姻戚を作り跡継ぎを生んでこそ一人前という風潮があるが、私は今後、子を生むどころか結婚さえまともにできない可能性が高い。

 王族から「いらない」と言われた女を妻にしたがる物好きが、どこにいるというのだ。


 いたとしても間違いなくランクは落ちる。

 王家と公爵家の潤沢な資産に甘やかされてきた私が、どこまで格下の家の女主人をやれるというのか。


 そして独り身のままである場合、私の居場所は実家にはない。私は公爵家の一人娘だが、王族から婚約話がきたこともあって早々に跡継ぎからは外されている。公爵家を継ぐべく教育されているのは年上の従兄だ。いずれは彼がお嫁様をもらい、次の公爵家を築くだろう。


 占星術師を信用するなら猶予は三年しかない。身の振り方を考えておかなくては。

 それを思うと、王子が早めに教えてくれてよかったと思うほかない。


 お茶を飲み干し、立ち上がる。


 温室を出る前に王子が私を呼び止めた。

 振り向くと、彼が手ずから、薔薇の花を一本摘んでいた。パチンと鋏の音がする。その鋏を背後の護衛に渡して、茎の長い薔薇は私に向けられた。


「ありがとう。これは今日の記念に」


 温室の入り口にいる私たちは、ここからする会話はすべて使用人に聞かれていると思いながら話すしかない。芝居のことは漏らせないのだ。この先、一生。

 私は扇を持つ手と反対側の手を伸ばした。一本だけの薔薇を受け取る。


「紅薔薇の花言葉は愛ですわね」


 決別の記念にはふさわしくないだろうに。

 そういうと王子は、いつものように、夢を見ているような柔らかな微笑みを浮かべた。


「君に一番似合う花を贈りたいと思ってね。花言葉に託すなら白かオレンジだろうけれど、君にはこれくらい赤い薔薇のほうが似合うから」


 手元の薔薇は、真紅を通り越して血のような色をしていた。


 私は白い薔薇やオレンジの薔薇の花言葉を頭の中に並べる。

 白い薔薇の花言葉には「深い尊敬」、オレンジの薔薇には「信頼」というのがあった。

 情熱的な意味で捉えるならば「私はあなたにふさわしい」、「あなたの魅力に目を奪われる」。なんとでも解釈できるメッセージだ。薔薇の花言葉はなにせ多い。


 なお血のような黒赤色の薔薇の花言葉は「死ぬまで恨みます」「憎悪」。ろくなものではない。

 やたら茎の長い薔薇だが、たしか薔薇の枝の花言葉は「あなたの不快さが私を悩ませる」……。


 実は私のことが嫌いだったのだろうかというチョイスだが、ここは素直に「似合っているから」だと思うことにした。生き生きと咲いた黒赤色の薔薇は、確かに私の黒髪によく似合う。


「殿下は秋の薔薇がお好きでしたわね……オレンジに、花弁の先だけピンクが入り混じったような。夕焼けの色に映える薔薇が」


 王子の表情から一瞬だけ微笑みが消えた。とまどった、という感じだと私は受け取ったがどうだろう。

 もしかして形だけの婚約者の私が、あなたのお好きな花を知らないとでも?


 そういえば、一輪だけの薔薇には「一目惚れ」「あなたしかいない」という花言葉もあったなと思いながら、私もまた決別の言葉を紡ぐ。


「親愛なる殿下。このセレスティン・ウィスタリア、末永くあなた様の忠実なる臣下であることを、この薔薇に誓いますわ」


 私はちゃんと微笑んでいるだろうか。これを聞いた使用人たちは「やっぱり愛がない婚約なのよ」と噂してくれるだろうか。普通なら「私も殿下を愛しておりますわ」と頬を染めて返すのがふさわしい場面なのに。

 いや、そういえばここにいる連中は皆、一番最初の王子の驚くべき発言を聞いていた。さすがにこの場に噂を広めるような愚か者はいないだろうが、こっそり自分の「飼い主」に「ここだけの話」くらいは報告しているかもしれない。

 私は王子に背を向ける。

 さあ、誰も幸せにならない茶番は、今日この場からだ。


 私は声高に執事見習いを呼ぶ。

 すっ、と私の側に近付いた彼女は男装の麗人で、そして私の護衛も兼ねている。彼女に向かってポイと荒い手つきで薔薇を渡した。先ほど追い出された顔ぶれの中にいて私と王子の密約は聞いていない。


 実は、彼女もまたマレビトだった。


 マレビトの話が出たときは息が止まるかと思った。

 王家に隠して貴重なマレビトを囲っているとバレたらどうなることやら。

 断じて叛逆の意図はない。ただちょっと傍から放したくなかっただけだ。主に友愛という理由で。


 彼女が男爵令嬢などではなく、うちの使用人でよかった。

 王子の新しい婚約者でなくてよかった。

 お城の占星術師に目を付けられるような存在でなくてよかった。

 英雄を生んだら「用無し」と、始末される運命でなくてよかった。


 王子が王子のマレビトと共に不幸になるというのなら、私だって私のマレビトと共に……精一杯、幸せになってやる。


 ***


「よろしいのですか、殿下」


「ああ……最後の望みは叶った。高嶺の花とはよく言ったものだよね。すぐ隣にいるのに、私を愛してはくれない、手の届かない花だった」


 自分を気遣う老執事の声に、王子は振り向くことなく答えた。

 温室の扉の向こう、彼女の後姿が見えなくなったあたりをぼんやり眺めていた。


「あの方を本当に諦めるので? こう言っては何ですが、例の男爵令嬢とご結婚され英雄がお生まれになった後……英雄は早くにお母君を亡くされるでしょうから……次の王妃様としてお迎えすることもできるのでは? あの方であれば王妃として戴くのに何の不足もない。それどころか、最もふさわしい方でいらっしゃいます」


「あれだけはっきり拒絶されているのに? それは可哀想だよ。せっかく私との婚約というくびきから一度は逃れられたというのに、もう一度私の手元に繋ぎとめるなんて」


 辺りは夕焼け色に染まってきた。

 ピンクを含んだオレンジ色の光が照らしだす景色に、好きな色の薔薇をだぶらせる。そして薔薇が誰より似合う婚約者のことも。元婚約者、と呼ぶのはまだ待って欲しい。


 ずっと隣にいた幼なじみ。

 ずっと、好きだった。

 例え彼女が自分を愛していなくても、彼女と結婚するのは自分だと疑ったことなどなかった。


「私たちは似た者同士だったよ。薔薇が好きで、紅茶が好きだった。けれど彼女が好きなのは華やかで大輪の初夏の薔薇で、私は落ち着いた色合いの秋薔薇が好きだった。彼女ははっきりとした味の夏摘みの茶葉が好きで、私が好きなのはまろやかな香りの秋摘みの茶葉だった。似ているのに、少しずつずれていたんだ……なにもかもが」


 いつか。

 彼女に、自分の手で、紅茶を淹れたかった。

 美味しいと言ってもらいたかった。

 彼女のために、自分の手で、薔薇を摘みたかった。

 綺麗だと微笑んでもらいたかった。


 自分の手で彼女を幸せにしたかった。


 今日、そのただ一度の機会に恵まれた。そしてこの先の人生には二度と訪れない。


「ああ、でもまさか、彼女が私が好きな花を把握してくれてるとは思ってもいなかった。その程度には気にかけてくれていたのかな」


「恐れながら。気遣いは淑女の嗜みでいらっしゃいます」


「義務感からだと? まったく、うちの執事は容赦ないな。夢見ることさえ許してくれないとは」


 泣き笑いのような表情で、王子は振り向いて執事を軽く睨んだ。

 それから。

 セレスティンから「顔と優しいだけの夢見る王子様」と称されていた王子は、うって変わって、その美しい顔にナイフのような冷徹な表情を乗せる。


「男爵令嬢との結婚については、あくまで私が自分の意思で彼女を愛し『真実の愛』に遵じたように見せかける。高位貴族ほど反発するだろうが、身分違いの恋は平民からは広く支持されるはずだ。まったく父上も、私以外の王子を生かしておいてくれていたら私が相手役を演じることにならずとも済んだのに」


「それは難しゅうございますな。相手の女が計算高ければ、いずれ王妃の座……あなた様を狙うのでは」


「そうか。ではやはり私が相手役か。致し方ない。くだんの男爵令嬢、本人の資質にもよるが、王家に嫁いだ後に急ごしらえで教育を施しても一国の王妃は務まるまい。セレスティンが一体何年、王妃になるべく教育を受けていたと思ってる。……国の恥になる王妃は表には出せない。が、セレスティンの言うように愛妾を立てれば平民からの支持は得られぬだろう。せいぜい国内向けに名声だけは残してもらおう。一国の王子に愛され、妃にまで上り詰めた夢物語の主人公として」


「御意。できるだけ早くお子をお作りくださいませ。くだんの方が、王子妃のうちに」


「王妃にはさせぬ、か。男でも女でも、生まれる子供は将来の英雄だ。早くに母を亡くす予定なのだから優秀な乳母を付けてやらねばな。……ところで人払いをした後のメイドたちはどうなった? 動きがあったか?」


「一人のメイドが動きましたな。下男に接触しました。今、その下男の跡を付けさせております」


「ここまで入り込んでいるんだ。どうせ立派な紹介状を持ったメイドだろう。母方の祖父か? それとも母上自身か? 父上でもウィスタリア公でも驚きはしないがね。お忙しいことだ」


 血を流し、血を重ね、それで生きのびてきたのが今の王族だ。

 ふわふわと夢見るような様はあくまで外に向けて被った仮面。

 セレスティンは自分を冷たく計算高いと思っているが、王子も似たようなものだった。ただ容貌が、セレスティンはいかにも気の強そうな美人で、王子は穏やかそうな顔立ちだっただけである。


 どこまでも誇り高く咲く薔薇は、振り向きもせずに行ってしまった。

 恨み言ひとつくれずに。

 それどころか臣下として末永く忠誠を誓うと。その忠誠に報いるのが「王族に婚約を破棄された」との汚名でしかないのが腹立たしくて仕方ない。


「……ウィスタリア公に恨まれるな」


 娘を蔑ろにされて、有力貴族が確実に一人、敵に回る。

 王子はぼんやりとこの国の未来を憂いた。


 *


 一年後。

 とある無礼講のパーティにて、一人の少女が飲み物を持ってふらふら歩いていた。そうして何もないところで、いきなり転ぶ。


「きゃっ」


「大丈夫ですか?」


 手を差し出したのは、この国の王子だった。


 少女は驚いて、その大きな瞳で王子を見つめた。ぽぅ、と徐々に頬が染まってゆく。


「はいっ! あの、ありがとうございます。私、そそっかしくて……ああ、ドレスが……」


 少女が立ち上がるとドレスの裾が汚れていた。転んだ拍子に持っていた飲み物がかかったようだ。


「すぐに染み抜きを。誰か! こちらのご令嬢に、代わりのドレスを手配してくれないか」

「え、えええ!? いえ、あの!」

「令嬢が汚れたドレスで会場にいるのはよろしくありませんよ」


 王子はとびきりの笑顔を、少女に向けた。


 *


「やったわ! フラグが立った! このままトゥルーエンドまで間違えないように頑張らなきゃ! ゲームだと婚約破棄の後ナレで一年後に結婚式だけど、ここではスキップできないもんね!!」


 *


 その二年後。


 王子と少女は月の綺麗なバルコニーで見つめ合っていた。

 少女……彼女はもう十八。貴族の常識でいえば成人になっていた。だが、いつまでもそそっかしくて守ってあげたい少女の雰囲気のまま。まるで出会った十六の頃から時を止めているかのよう。

 悪役令嬢との婚約破棄の一幕は一年前に終わっている。


 そして今日の昼には、彼女の「トゥルーエンド」こと結婚式を迎えていた。


 自分に向けてくる愛らしい小動物のような微笑みは、王子にはすべて計算ずくの醜悪な表情にしか感じられなかった。吐き気をもよおしながら王子は必至でそれを抑え、口角を上げて、呪いの言葉を吐く。


「愛しているよ……私の花嫁」


 凛と咲く気の強い薔薇には、ついぞ言えなかった告白だった。

 嬉しい、という返事を聞いた気がしたが王子は自分が悪い夢の真っ只中にいるようで、よく聞こえなかった。

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悪役令嬢たちのお茶会 ~ご令嬢は皆、幸せになりました~ 十和田 茅 @chigaya

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