ルビコンの代償 その2
「ちょっと食べられる気分じゃないわ」
私はついに口をつけられずに夕食を終えた。
このままだとぶっ倒れるので、付いていた一条絵梨花が心配そうな声をだす。
「お嬢様。
このままだと倒れちゃいますよ?」
「そうね。
分かっているわ。
点滴を用意してくれない?」
「……かしこまりました」
一条絵梨花が内線で医務室に連絡して点滴の用意をする。
このビルには私のために医務室があり、医師が必ず交代で詰めている。
さすがに引く手あまたの現役医師を雇用するのではなく、桂華製薬のコネからリタイヤ寸前の医師の小遣い稼ぎという感じで来てもらっている。
メイド達も最低限の医療知識を仕込まれているので、こういう時は素直に聞くことにしている。
「どうしたんですか?
今日の食事、お嬢様の好きなもので料理長の和辻さんに頼んだのですよ」
「ごめん。
ちょっとある事でトラウマになってて、気分が優れないのよ」
「お医者様にそれも伝えておきます」
「お願いするわ」
そのあたりアンジェラは分かっているみたいで、医務室に行くと急性ストレス障害と判断してその手の医師の手配をしてくれていた。
点滴をしながら話をして、安堵感なのか点滴に睡眠薬が入っていたのか知らないが、そのまま眠ってしまった。
米国の軍事的混迷の原因にはベトナム戦争の敗北がある。
CIAの度重なる工作の失敗の果てに、最大時約50万人もの兵力をベトナムに張り付けた米軍は、手足を縛られたままついに敗北に追い込まれたのだが、ネオコンの中核はそのベトナム戦争を忘れていなかった。
「CIAがろくな事をしないから合衆国の兵士がベトナムで血を流したのだ!」
この思いから脱却したのが湾岸戦争で、ネオコンの軍事的ドクトリンは『最先端兵器でぶん殴り、兵士の投入をできる限り抑える』という方向に進む。
そういうドクトリンから出てきた彼らの初期軍事戦略は、制空権確保からの機械化部隊の投入のみで片を付けるという素晴らしい机上の空論だった。
何しろ、彼らが用意するつもりだった兵力はたった数万だったのだから。
これも理由がある。
彼らはイラクを制圧するつもりがなかったのだ。
政権を崩壊させ、撤兵させればあとは国連にでも任せてしまえばいい。
とにかく、敵地で米兵が一人死ぬごとに米軍の敗北ゲージが上昇し、それが一定水準を超えると勝っているのに米国は敗北に追い込まれる。
その事を、彼らはよく分かっていた。
だからこそ、ネオコンは私の戦争参加に狂喜したのだ。
米国人でない外国人の傭兵なら何人死んでも戦争遂行に影響が出ないからだ。
もちろんこれは、実際に血を流す現場の将軍連中にとてつもなく受けが悪かった。
傭兵そのものは予備兵力であるからそれが使えるのは嬉しい。
だが、金で雇われた、モラルも低く法の外にある彼らを主戦力にする事の愚かさも理解していた。
それに今度は周辺国の情勢が変化を与えてゆく。
イラクは独裁の下に3つの勢力がバランスを取っているモザイク国家だった。
その3つの勢力とは、イラク独裁政権を主導するスンニ派イスラム教徒、隣国イランの国教であるシーア派イスラム教徒、そして国を持たない最大の民族と言われるクルド人。
イラクではスンニ派の政党バース党による独裁下に他の二勢力が弾圧・迫害され、湾岸戦争後の蜂起においても強権で弾圧されていた。
イラク現政権の崩壊は、必然的に他の二勢力の浮上を意味するのだが、それを周辺国が喜べない理由があった。
シーア派が政権を取ると、湾岸諸国が影響を受ける。
王政国家だったイランが革命によってイスラム宗教国家に変わった衝撃は、他の湾岸王政国家に衝撃を与え、イラン・イラク戦争でイラク側に付く原因になっていた。
湾岸諸国の動揺は第三次オイルショックを引き起こして病み上がりの日本経済に打撃を与えかねない。
クルド人の方はもっと深刻で、イラクのクルド人居住地域が独立でもしようものならば、最も多くのクルド人が居るトルコの政権が動揺する。
この頃、トルコ政府はクルド人のゲリラ組織と対立中であり、その鎮圧に多大な労力を懸けていた。
トルコ政府にとってイラクのクルド人が独立国家を作ることは、トルコ内部のクルド人の独立闘争に油を注ぐだけでなく、この独立国家を聖域としてクルドゲリラが跳梁跋扈する事を意味しており到底許容できないものだった。
なお、クルド人はイランやシリアにも居るので、これらの国にも火がつく。
……まあ欧州の植民地主義で勝手に国境を引かれた歪みが噴出している訳なのだが。
イラクの国民全員ジェノサイドというのはワシントンの中だけでなく、周辺国にとっても魅力的なのが実に救いがない所だった。
何よりも都合の悪い彼らの返り血と恨みを9.11の復讐に燃えている米国になすり付けられるという所が。
「お嬢様にとっては、あまりおもしろくない話ですが、日本とロシアの条約交渉にもこのイラクが絡んでいます」
トラウマ体調不良の中でも話を持ってきた岡崎を責められないし、聞くだけの価値はあった。
更に嘔吐するはめになったが。
「ロシアとの交渉の焦点は、北樺太の帰属、要するにロシアが北樺太の石油資源を放棄するかに掛かっています。
もちろん、ただで放棄するなんてありえないから玉虫色でごまかすのでしょうが、失ったものを補填できるならば話は別です」
「……それがイラクという訳ね」
「ええ。
お嬢様はまっさきにイラクに絡むことを宣言した。
それは石油という資源戦略から見て、最高のリターンを得られる立ち位置に居ます。
ロシアはそれを交換条件にというプランも考えているでしょう。
俺は、このジェノサイドの出処はロシアだろうと踏んでいます。
民主主義国にここまでの思い切りの良さは無いですからね。
知ってますか?お嬢様?
ロシアは今回の交渉の条件の一つに、『お嬢様をロシア及び近隣国家の元首にしない事』を入れています。
お嬢様。
お嬢様が望むのならば、ジェノサイド後のイラクにお嬢様の王国を作ることも可能ですよ」
「…………おえっ!」
たまらず吐いた所で目が覚めた。
点滴を受けて寝ていたらしい。
吐いては居ないが、今の自分を見てこのジェノサイドが最適解じゃないかと思ってしまった自分の醜さが嫌だった。
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CIAがろくな事をしない
南ベトナム。
設立からCIAの関与があり、独裁化と民衆弾圧の果てに南ベトナム政府内部でクーデターまでする始末。
ついにこの国はサイゴン陥落まで国情が安定しなかった。
ペンタゴンのゴタゴタ
『ブッシュの戦争』。
ドキュメンタリーがあるのだが、見ていて途中で頭が痛くなるネオコンの楽観さだが、更に調べるとその根底には湾岸戦争の勝利とベトナム戦争の敗北がある。
歴史はつながっているんだなぁ……
素晴らしい机上の空論
『ラムズフェルド・ドクトリン』
コンセプトは『軽い、速い、新しい』。
間違っては居なかったが、某大サトー小説の言葉を思い出す。
「ベトナムで何で米軍は負けたのか?
それは歩兵を歩かせなかったからだ」
イラン革命
王政国家にとってイランという革命の輸出がされるとたまらないというのがあり、実に救いがないのだが宗教国家イランの方が女性進出等が他の湾岸諸国に比べて進んでいたなんて笑えない話が。
そんな中東で欧米化が一番進んでいた近代国家の一つがイラクだったんだよなぁ……
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