第9話 決別の時間
「帰れないって、一体どういうことなんだ……!」
まさか俺が断るとは夢にも思わなかったのか、蓮が目をむいて叫んだ。
大きな声を出されると怖い。それは妊娠してからの、本能的な感情なのだろう。
「言葉の通りだ。俺はここにいると決めた。そっちには行かない。……悪いけど」
蓮に恐怖を感じている。
それは、好きという感情を上回っていた。
怖くて顔が見えない。しかし思っていることは、きちんと伝えなくては。視線をそらしながらも、はっきりと伝えれば、蓮が苛立たしげに頭をかいた。
「何言ってるんだ。もう一ヶ月もここにいるんだから、いい加減帰ってこい。ほら」
そう言って、手を差し伸べられる。
俺が帰ることを全く疑っていない。あんなにも拒否したにも関わらずだ。
蓮の中で、俺は未だにイエスマンなわけか。
そう考えたら、ものすごく頭に来てしまった。
「行かない。……もう終わりにするから」
「終わりにする?」
「……俺と離婚してくれ」
自分から、この言葉を言うなんて、人生というのは分からない。
しかし、もう耐えきれなかったのだ。
「りこん?」
何故か蓮は、俺の言葉に驚いた表情を浮かべる。こんなことを、言うとは思わなかったからか。
確かに今までたったら、気持ちを押し殺して笑顔を作りながら蓮の手をとっただろう。辛くても、好きという感情で乗り越えていた。
その俺を期待しているのなら、残念ながら応えられない。
「……凛が来た時に、俺がいたら何かと気を遣うだろ。それに離婚して、すぐに凛と結婚したら何かと言われるかもしれない。俺の瑕疵で離婚すると周りには伝えるから、安心して二人で一緒になってくれ」
今、これまでで一番いい笑顔をしているはずだ。
「お、れは……はじめ、俺を捨てるのか。やっぱり、そいつと関係を持って」
「それ以上は聞き捨てならない」
ずっと黙って様子を伺っていた華崎が、俺の肩に優しく触れて蓮との間に立ち塞がる。
視界から蓮が消えて、その背中のたくましさに驚いた。
「なんだ、お前。今、俺ははじめと話しているんだよ。出しゃばるなら、それ相応の対応をするぞ」
声だけだと、さらに蓮が苛立っているのを感じる。
華崎に危害を加えそうで、俺は止めるために顔を出そうとした。しかしそうする前に、手を掴まれる。
「はじめ様。相手にする必要はありません。疲れたでしょうから、すぐに屋敷に帰りましょう」
どうやら華崎は無視することに決めたようで、そのまま先導するように腕を引っ張った。力は全く強くない。壊れ物でも扱うみたいに丁寧だ。
そうだな。今は蓮も興奮している。
ここで話をしても、上手くいかない。
「また、連絡する。とりあえず今日は帰ってくれ」
「……まっ」
「頼む」
蓮の言葉を遮って、顔も見ずに言った。
ひゅっと喉が鳴る音が聞こえる。背中に手を伸ばす気配があった。しかし、なにも触れることは無かった。
「それじゃあ」
最後に声をかけたけど、答えはない。そのことに胸が痛んだが、気持ちを律して一度も振りからずに屋敷に戻った。
◇◇◇
はじめの背中が小さくなっていくのを、俺はただ見ていることしか出来なかった。
伸ばした手は、何も掴めないまま力なくおろされた。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか。考えても答えは出ない。
ただ、はじめが今までのように、俺の絶対的な味方じゃなくなったことだけは確かだ。
どうして? いつから?
特に変わったことは無かったはず。
何も言わずに実家に帰った今回の件は、はじめらしくないと思ったけど、それ以外はいつも通りだったのに。
関係を否定していたが、やはり。
「あいつのせいか」
あのいけ好かない使用人。
見た感じ、庭師か? そんな奴が、どうしてはじめに近づいたんだ。
とても嫌な男だった。はじめを抱きしめていたかと思えば、俺のことをずっと睨みつけていた。その視線は責めているようで、居心地が悪かった。
それに、まるで自分ははじめを守っているとばかりに、でかい図体を使って姿を隠した。
はじめもはじめだ。
俺が帰ろうと言っているのに、何故か拒否してあんな男と一緒に行くことを選んだ。
しかも、離婚したいだって?
確かにそうするつもりだったけど、まだ時期が早い。
はじめだって分かっているはずだ。それなのに、どうして今離婚したいと言い出したんだ。
はじめが屋敷にいたら凛が気まずくなるなんて、逆だろう。
凛はとても傷ついているだろうから、その心を癒してほしい。みんなで助け合うんだ。幼なじみなんだから。
「離婚は、まだ駄目だ。……駄目なんだ」
俺は痛いぐらいに、両手で髪を乱した。
そんなことをしても、心の中にある怒りや悲しみがぐちゃぐちゃになった感情は、全く消えてくれない。
ただ、離婚をするつもりはない。それだけは絶対だ。
はじめは、また話をしようと言っていた。
そこで必死に頼み込めば、きっともう少し時期を延ばしてくれるはずだ。
さっきはおかしくなってしまったけど、はじめは俺の自慢の優しい幼なじみなのだから。きっと優しく受け入れてくれる。
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