第64話 昔話

「……はぁッ、はぁッ、はぁッ。」


暗い路地裏をただひたすらに、がむしゃらに走る。


大通りからの光が入ってこないほど、入り組んだ狭い道を、迫り来る下賎の手から逃れるように。


足がもつれ、息も絶え絶えに、何度も躓きながら必死に逃げる。


見下ろす寒空は、そんな哀れな人間を嘲笑うかのように月を喰らい、その灯りを隠していた。


「……はぁッ、はぁッ、はぁッ。」


暗闇に、響き渡る足音。


何度も何度も踏み鳴らし、その足を止めることは決してない。


焦燥に駆り立てられ、その背中を蹴飛ばされるように無我夢中で駆け抜ける。


そして……


逃げて、逃げて、逃げて。やがて、逃亡の末に辿り着いたのは……


逃げ場のない、小さな袋小路だった。


「……ッ。」


それを確認した瞬間、その場で急停止し、焦りに表情を歪ませ、背後を振り返る。


ひび割れた明かり。


不定期のように、定期的な点滅を繰り返す蛍光灯。


その真下から現れる2が目に入ったことで、悟ってしまった。


……『まんまと罠に嵌ったのだ。』と。


罠として、予め用意していた逃げ道に獲物を追い込むように、ここまで誘い込まれたのだ。と。


壁を背に、どうすることも出来ず、ただ、2つの影が近付いて来る様子を、見ていることしか出来ない。


心の内から恐怖が染み出し、恐ろしさに体が震える。


心臓の鼓動も早まり、動悸が治まらない。


来ないでくれ。と、いくら願ったところで、それは結局無駄なこと。


迫る足音から、逃れる術はなかった。




























「……随分と、逃げ回ってくれたじゃないか子猫ちゃ〜ん。」


……やがて聞こえてきたのは、汚らしい男の声。


ハッと顔を上げると、目に映るのは、上背のある男が2人。


1人は口元に不敵な笑みを浮かべ……


もう1人は、私の全身を舐め回すかのように見つめてくる。


「……ッ、、」


その視線に、ゾッとするものを覚え、私は思わず体を震わせてしまう。


「おっ!いいね〜、その表情。そそるね〜。」


それに対して、男の1人は舌をなめずり、私の元まで、歩み寄る。


「恨むのなら、お前の弟でも恨むんだな。」


もう1人の男も、鼻で笑い、そう言葉を零した。


「……や、やめて。こ、来ないで。」


無力な私は、叶うはずもない懇願を、口にすることしか出来ない。


やがて、私の目の前に立った男は、気持ちの悪い笑みを浮かべて、こう言い放った。


「……人質なんだから、殺さない程度なら、何しても良いよな?」


「……ロリコンが。……まぁ、好きにしろ。」


後ろの男から返事が返ってくるや否や、男は、私の腕を後ろの壁に抑えつける。


「……い、いや、だ。」


「女子中学生なんて、滅多に好きにできるもんじゃねぇしな。」


私の拒絶を無視し、男は私の体へと手を伸ばす。


抑えつけられた二の腕は動かせず、あまりの恐怖で大声も出せない。


「……それじゃ、早速。」


今から行われることは、きっと一生の傷となり、この身に刻まれることになる。


私を見る男の嫌らしい目つきが、それを物語っている。


どのような辱めを受け、どのようにこの身が弄ばれるのか、それは想像に難くなかった。


「……や、やめ。」


男の伸びる指先が、私の服に触れ、まるで引き裂かんとするように、力が込められる。


一瞬後、その服はビリビリに破け、私の体は、男の前で露になってしまう。


……その、筈だった。


「……あの、ちょっといいっすか?」


その時、暗い裏路地に、1つの声が響いた。


「……!?」


男2人は、意識外からの突然の声に、驚愕を隠せない様子で、後ろを振り返る。


私は、そののある声に、理解が追い付かず、放心したまま、そちらに目を向ける。


やがて、男たちの背後、暗闇から姿を現したのは、1人の少年。


学生服を着た、これといった特徴もない、至って普通といった男の子。


この場に現れるには、とても似つかわしくない雰囲気の、ただの少年だった。


「……あんたらが襲おうとしてる、そいつ、知り合いなんでやめて欲しいんですけど。」


少年は、私を一目一瞥し、そう言葉を零す。


しかし、男たちは、その少年の登場に戸惑いを露わにして声を荒らげた。


「……お、お前みたいなガキが、どうやってここまで入って来たんだ!」


「……どうやってと言われてもなぁ。」


「見張りが居たはずだろうが!」


「……あー、確かにいたな。それっぽいやつ。」


男の言葉に、少年は思い出すかのように首を傾げながら、そう返す。


「チッ、あいつ、真面に仕事してねぇな。」


男の1人は舌打ちし、その少年に向けて語気を強めて言い放つ。


「……いいかガキ、これはお前みたいなやつが関わっていい事じゃねぇんだ。分かったらさっさと……」


「……いや、知り合いが襲われてんだから、無視はできねぇだろ。」


しかし、少年は男の言葉を一蹴し、そう言い返した。


「……糞ガキが。さっさと消えろって言ってんだよ。死にてぇのか?」


男は、苛立ちを感じさせる声でそう言うと、懐から何かを取り出し、それを少年へと突き付ける。


それは、点滅する蛍光灯の光を反射し、暗いこの場に、妖しげな輝きを放つもの。


鋭く尖った先端は、人間の皮膚を、いとも簡単に貫くことが出来るであろう。


「……包丁、か。」


少年は一言、そう言葉を漏らすと、それを警戒するように目を細める。


「おい、待てって、相手はガキだぞ?殺す必要は……」


私の目の前に居た男は、刃物を抜いた男に対して慌てた様子で声を掛けるが……


「……逃げるチャンスは与えてやったんだ。だがあのガキはそれを手放した。もう殺さねぇ手はねぇよ。」


刃物を持った男は、静止の声を振り払い、少年の方へと歩いて行く。


私は、未だ男に体を抑えつけれたまま、ただそれを見ていることしか出来なかった。


「……刃物を使うのは勝手だが、流石に俺も手加減は出来ないからな?」


少年は、静かにそう言い放ち、真剣な表情で、真っ直ぐに向かってくる男を見据える。


男は、その少年の台詞に対して、馬鹿にするように薄らと笑みを浮かべて言葉を吐いた。


「……ハッ、笑わせてくれるな。厨二病か?まぁ、その歳だとイキりたい気持ちは分からんでも……」


しかし、その後に、男の言葉が続くことはなかった。


吹き飛ぶ巨体。


見事な弧を描いて宙を舞い、そのまま地面へと落下する。


ドサッと仰向けに倒れた男は、白目を剥き、ひしゃげた鼻からは血を流していた。


「……隙を晒し過ぎだ。あれだけ対面で、顔面にクリーンヒットするのはなかなかだぞ。」


拳を振り抜いた姿勢のまま、そう言葉を零すのは、呆れた表情を覗かせる少年だ。


「……な!?」


残された男は、表情を驚愕に染め、私の腕を離すと、勢いよく懐から何かを取り出す。


それは、黒い鉄製の武器。


持っているだけで、勝利を確信できるほどに強力な物。


そのから放たれる弾丸が直撃すれば、誰であろうと瀕死、もしくは即死に追い込まれる可能性のあるもの。


拳銃が、その男の手には握られていた。


「……あ、あれ?」


……しかし、男は照準を前方に構えるも、あの少年の姿が見当たらない。


疑念の声を漏らし、辺りを見渡した直後……


「……下だ、間抜け。」


少年が、男の真下から現れ、その拳を男の顎へと振り抜いた。


「ぐぇッ!?」


顎が砕けるような音と共に、男は汚い悲鳴を上げる。


そのまま男は倒れ込み、再び起き上がる気配もなくなった。


「……相手が思いのほか馬鹿で助かったな。人質にでも取られていたら危ないところだった。」


辺りが暗いことも幸いだったかもな。と少年は言葉を零し、はぁ、と、ため息を吐いた。


……辺りはしんと静まり返り、先程までのやり取りが、嘘だったかのように、ゆっくりとした時間が流れている。


やがて、少年は少々気まずそうにしながら、私に声を掛けてきた。


「……で、貴音、大丈夫か?」


彼の言葉で、やっと私も口を開く。


「……ど、どうやって?」


「……どうやってって?何が?」


「……どうやって、私を助けてくれたの?」


「……どうやってと言われてもなぁ。俺が喧嘩強いことは知ってただろ?だから、何となくとしか、言いようがないな。」


「……そ、そうじゃなくて、どうしてここが分かったの?」


「……それは、本当に偶然だな。学校からの帰宅途中で、追われてるお前を見かけたから、興味本位で着いてきたってだけだ。」


「……そ、そう、なんだ。」


「…………。」


その場に、僅かな静寂が訪れる。


しかし、次には少年は顔を上げ、こう言った。


「……そろそろここから離れるか。こいつらが起き上がってきたら面倒だし、それに……」


だがここで、彼の言葉は遮られた。


他でもない、私の行動によって。


……私は、彼へと抱き着いていた。


「……貴音?」


少年は、困惑したような、不安そうな表情で、私の顔を覗く。


彼の目に映る私の顔は、今どんな状態になっているのか、それは想像もしたくない。


溢れ出てくる涙を抑えられず、鼻水も垂れてきているかもしれない。みっともない。


でも、それでも……


「……怖かった。本当に、、、怖かった。」


吐き出さずにはいられなかった。


「……まったく、大丈夫だって。」


少年は優しく微笑み、私の頭を撫でてくれる。


その優しさが、温もりが、ただただ暖かくて、私は更に、強く彼を抱き締める。


「……うぅ、あ、あり、がとう。本当に、ありがとう。」


その嗚咽混じりの言葉は、ちゃんと彼に伝わっているのだろうか。


彼は何も言わず、ただ私の髪を撫でるだけ。


やがて、私たちは暗い路地裏へと溶けて。










溶けて。























……溶けて。
























……そして、私は目を覚ました。









































「…………。」


雨の音で目が覚めた。


降り頻るそれは、億劫になる音を鳴らし、ベッドから起き上がる気力を削いでいく。


……また、あの『夢』。


……いや、思い出?……『記憶』と言った方が正しいだろうか。


私は、気だるく重い体を起こし、窓の外を眺める。


「……土砂降り。」


最近は、ずっとこのような天気だ。


……頭、痛い。


梅雨に入ってどれほどの時間が経ったのかは覚えていないが、偏頭痛持ちの私からしてみると、早く梅雨が明けて、安定した天気に戻って欲しいと願うばかりである。


……吐き気も酷いし、今日は最悪だなぁ。


ため息を吐き、私は再び布団にくるまる。


寝る体勢に入り、また夢の世界へ旅立とうと瞼を閉じた。


その時……


「……貴音?体調が悪いのか?」


どこからか、そのような声が聞こえてきた。


それは、私が目を覚ましてからの、一部始終見ていたであろう『彼』が発した言葉。


この家の同居人で、私からすれば、『弟』のような存在。


その子は、心配そうな表情で私を見ていた。


「……うーん、ちょっとね。」


私自身も、頭痛や吐き気が影響してか、何となく眠ってしまいたい衝動に駆られ、目を閉じる。


……そう言えば、かれこれ1かも。


私は無気力に陥ったまま、黒い視界の中で、ふとそんなことを思い出す。


学校が嫌いな訳じゃない。……いや、むしろ好きだった。


……けれど、色々なことで、もう心が折れてしまったのだ。


学校へと足を向けることが、出来なくなってしまった。


……それに、私みたいなやつが、『あの人』の前に現れるなんて、そんなことが許される筈がないし。


「…………。」


私は、約1年前のことを思い出し、少しだけ憂鬱な気分になったが、もう気にしないようにと頭を振る。


いつまでも、未練たらしくしている訳にはいかないのだ。


「……僕は今から用事があるから、ちょっとの間、家を空けるぞ。」


そうしていると、大きな荷物を持った彼が、玄関へと歩いて行き、私に向けてそう言葉を放つ。


「……うん。なるべく早く帰ってきてね。」


「……ああ。」


そう短く言葉を交わした後、彼は、私を心配そうな目で見たかと思うと、そのまま何処かへと行ってしまった。


……こんな大雨の日に、いったい何をしに行くのだろうか。


そんな疑問が浮かんでくるが、考えたところで答えが出ることでもないので、結局考えるのは直ぐに止めて、私は何となく窓の外へと目をやった。


外は、相変わらずの土砂降り具合で、その勢いが収まることはなく、なんなら先程よりも一層激しさを増している。


……そう言えば、『あの人』が変わり始めたのも、これくらいの時期だった気がする。


今となっては、もうどうでもいい事だが、当時は私もかなり困惑した覚えがある。


思えば、『あの人』がああなったのも、全部、のせいだったのかもしれない。


いや、きっとそうだ。間違いない。


……憎い。今でも腹が立つし、殺してやりたいとさえ思っている。




……でも、きっと私もと同じくらい醜くて、屑で、ゴミのような人間だ。


過ぎてしまったことは、もうどうすることも出来ない。


それは当然のことで、割り切るしかないこと。


……けれど、未だに後悔の念が消えることはない。


私があの時、『あの人』に手を差し伸べていれば、或いは、寄り添っていれば、何かが変わっていたかもしれしれないのに……


……『あの人』がいつかしてくれたように、今度は私が助ける番だったのに。


「…………。」


……でも、過ぎてしまったことは、もうどうすることも出来ない。


ただ私はため息を吐いて、夢の世界へと現実逃避。


……予知夢なんて、本当に頼りにならないよね。


いつからか、私はを見ることがなくなった。


最近は全て、いつかの思い出たち。


……全て、懐かしい昔話ばかり。


けれど、こっちの方がいくらかマシ。


変に期待することも、不安になることもなくなったから。


だから私は、また『過去』を見る。


……暗い暗い深淵に落ち、やがて意識は反転し、世界に溶ける。


……あっ、と話してるみたい。


やがて、見えてくるそれ。


私は、少々複雑な感情を抱きながら、世界を見渡す。


女の隣には、どうやら『あの人』もいるらしい。


……これはちょっとハズレだなぁ。


最後、私はその光景を眺めながら、心中でそう呟き、夢の中に浸かった。

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