第53話 亀

狼達が走る。


三、四頭で一つの小さな群を作り、うねりながら、交差しながら、いくつかの群で流れを作り出す。

複数の流れが巧みに回り込み、幻惑しながら銀熊に襲い掛かる。


アルジェンティは強靭な両のかいなを振り回して応戦するが、小さな群れの狼達はするりと避け、傷は負っても致命傷は負わず、ひたすらに銀熊を振り回す。


本来、有象無象の狼の攻撃などアルジェンティにとっては何ほどのこともない。

だが、これらを通すと後ろの人間達が一瞬で引き裂かれると思うと懸命に防がねばならず、意識が散漫になると防御が疎かになり手傷を負う。

格下として気を抜くことはできない。



ビン! ビン! ビン!


気の抜けたような音を響かせ、棘が飛ぶ。

これを防ぐのは勇者フォルテン。そして森の娘、エルナ。


その後方には大きな盾を構えるシュテイナが控えるが、彼の象徴である大楯には既に棘が何本も突き立っており、いずれ貫通するのを待つばかりとなっていた。

つまり、盾役として不十分。フォルテンの剣と、エルナの爪に頼り、それを抜けて来たものだけを防ぐようにして、ようやく成立していた。


長年を共に闘い抜いた自慢の大盾が振り回されるたびにきしみ、まるで悲鳴を上げているようだとシュテイナは思う。

このままでは持たない、と思いつつも、そもそもまだ生きているのが不思議なほどの猛攻撃に晒されているのだ。凌ぐことで精一杯、状況を打破することなど思いもよらない。


このような状況下で生存できているのは、本来彼の敵であるはずの魔族達の奮闘による。

忌々しくも、それは認識せざるを得ない。


最初に見た時には肝を潰した銀熊、魔将アルジェンティ。

その恐ろし気な存在は、しかし狼達の群れによる攻勢を扱いかね、寄せては退くそれらを撃退するのに精一杯の様子だ。


そして、森の娘エルナ。

見目麗しい女性の姿をした、禍々しい黒く大きな翼を持つ女魔人。

全身が鮮血にまみれ、もともと赤い髪までどす黒く見えるほど血色に染め上げられている。


腕の一振りで狼は切り裂かれ、悲鳴を上げて逃げて行く。多少距離が開いていても届くその爪撃の原理は分からない。

更に言うなら、狼達のごく稀に届く牙なども、煩わしそうに腕を振るだけで払われている。つまり彼女に攻撃は通っていない。


問題は――


「痛いっ!」


エルナが悲鳴を上げた。

腕を切り裂かれ血飛沫が舞い、威力を失った棘があらぬ方へと落ちる。


狼達の攻撃はエルナには効いていないように見える。だが、後方から忘れた頃に飛翔する棘、これは有効のようだ。

それでも、エルナの腕に当たっていながら刺さらずに散っているのを、二度や三度はシュテイナも目にしている。

つまり、肌の強化に意識が伴えば通らない攻撃、ということになる。

それが通っていると言うことは。


「おい、女魔人! お前は魔族だろう!

 こっちを気にしていないで、もっと自分を護ったらどうなんだ!」


思わずシュテイナは叫んでしまう。


サブリーダーの立場から考えたら、仲間のために利用すべきは利用することが正解。

しかし、魔族に護られていると言う事実が肚に据えかね、つい声にしてしまった。

というか、あの必死さ、見ていられない。

あの象徴のような黒い翼も含め、体にも数本、棘が突き立ったまま。

全身を朱に染め上げてなお戦い続けるその様、痛々しくて自分が情けなくて、黙って見ていられないのだ。


「あたしは! 例えそれがひとときの連れだとしても!

 絶対に見捨てるなんてことはしない!

 見捨てたら! あの時、ルーパスに見捨てられていたら! あたしは生きていない!」


敵から目を離さずに言い切るエルナ。

全身から滴るほどに血を纏った彼女の姿は、本来は禍々しいと呼ぶべき姿だろう。


流れる汗と血が混じり合いながら強い瞳で敵を見据える表情。ところどころ固まった血が赤い髪に纏わりつく。

傷だらけの肢体に映える白い肌は赤黒く染めあげられていた。


戦場の魔女と呼ぶに相応しい容姿。

仲間を想い傷つき戦うその姿を、シュテイナは美しいと感じてしまった。


「そうだ! 私達は負けない! こんなところで負けてはいられないんだ!」


フォルテンが叫ぶと、その脇を抜けてひょうと何かが飛んで行く。

それが地面に落ちると同時に小さな火柱が立ち、周囲を燃え上がらせた。


「畜生、そんなこと言われたら、残りの矢なんて数えていられないだろ!

 大盤振る舞いだ、射ち尽くすまで射てやるさ!」


ジャレコも叫び、次々に短火箭を放つ。

ダーヴァイが神術でその矢に力を籠め、威力が増した炎に狼達は連携を乱す。


「あっち! あっち!」


元より計算され尽くした弾着、ヤズデグにストロレッツと呼ばれていた山嵐の魔人は、徐々に行動範囲を絞られて繁みから飛び出してきた。

その瞬間を逃さず、自身に刺さる棘を抜き投げつけるエルナ。


「ぎやあ!」


少し間の抜けた声を上げたストロレッツの肌を軽く裂き、残り少ない棘が数本落ちた。


エルナの檄に、その場にいた者達の気持ちが集まる。

それを肌で感じたエルナに自然と微笑みが生まれ、気持ちが軽く高揚するのを感じた。


「あたしは! 負けない! 戦うのに、人も魔もないんだから!」


***


俺がこの世界で初めて目にした湖。

その深い碧で構成された美しい湖面はいま深紅に染め上げられ、ゆらゆらと波打っていた。

その赤い湖に腰まで浸かり、アカリを背に括り付けながら狼達と対峙する。


この湖は入るとすぐに深くなり、その深さは俺でもすぐに沈んでしまうほど。

だがお陰で狼達の背ではここまで到達できず、背面に回られる心配もない。

あの山嵐ストロレッツがいなければ、泳いで逃走と言う手も使えたのだが。


その足場の悪さに勢いを殺された眷属が斬られ、打ち据えられ、尾を垂らして逃げ帰って来る様子を静かに眺めていたヤズデグ。

その目は憎しみと憤怒で爛々と輝き、意図せず漏れた唸り声に周囲の狼達が思わず身を竦ませている。


攻撃が、止む。


唐突に狼達による襲撃が収まり、ヤズデグを中心に隊列を組むように勢ぞろいする。

攻めあぐねたか?


その状態が少しだけ続いたと思うと、やおらヤズデグが天頂に顔を向けた。


うおおおおおぉぉぉぉーーーーん……


ヤズデグの吼え声が響く。


最前列にいた狼達が、まるで隊列を組む兵士のように整然と湖に足を踏み入れた。そのまま、犬かきというか。狼かきというか。湖をゆっくりと泳ぎながら散会して行く。


何体かは鞭の射程内だ。

しかし狼はそれ以上は近寄ってきていない。

意図がつかめない。ここは撃つべきタイミングだろうか?


――いや、撃てる敵は撃てる時に、撃つべきだろう。


唐突に何が起きても対処できるよう心配こころくばりしながら、ゆっくりと鞭を撃つ体勢を整えた時に――それは来た。


ヤズデグの周囲に残っていた狼達。

それらが突然走り出す。


一瞬、俺の体が硬直する。

そんな俺に構わずに次々に土を蹴り跳躍する狼達。

そうして泳いでいる狼達を踏み台にしてさらに跳躍、何体もの狼が同時に俺に向かい跳びかかる!


咄嗟に鞭を振り回して一体を打ち据え、撃墜。

撃った体勢を戻す勢いを利用して反対の手の短剣に力を籠めて斬り上げる。


きゃいんっ!


悲痛な声を上げる狼、しかし手数が足りず、残り数体が同時に俺に襲い掛かる。

迎撃カウンターしようとしているのか、背中でアカリがもぞもぞやっているが、いかんせん括り着いた状態ではどうにもならない。

身体を斜めにして、攻撃の薄い方向に飛び退く。


水に浸かって冷え切った下肢が悲鳴を上げる。

水が重い。跳躍距離を稼げない。


襲撃の対象を見失い湖に沈む狼達、しかしそれらを更に踏み台にして襲い来る第三波の狼達。

さすがに数は少ないが、しかしこちらの体勢が悪すぎる。


「くそっ!」


短剣をかざして力を籠め、発光させる。

ちょっとした小技、目眩ましに空中で体勢を崩す狼、俺は体勢を低くしてやり過ごし、あるいは狼の含むに拳を入れて軌道を逸らす。


水しぶきを上げ、第三波を凌いだ次の瞬間、第四波。


『死ねぇ!!!』


肚の底に響く声とともに、目の前に現れたひときわ大きな体、ヤズデグ本体。

その大きく開いた口から覗く牙は、もはや杭と呼びたくなる太さ。

身体の芯を緊張が走り抜けた。


と。


とんっ、という軽やかな衝撃と共に宙に舞う小さな影。

アカリが括り付けていた紐を外して跳び上がっていた。


嘘でしょう!?


ヤズデグがぎょろりとアカリを睨む。

怯みもせずに拳を握るアカリ。


いや、無理だから! いくらなんでも、それ無理だから!!


心の中で絶叫した俺は、後先を考えずに腕を伸ばす。

ヤズデグの大きく開かれた口に左手を突っ込み、俺はその舌を握ろうとする。

違和感に気づいたヤズデグは急いで口を閉じようとし、その牙に左腕を食いちぎられないように俺は剣を持った右腕で下顎を抑える。


バランスを崩した俺とヤズデグはそのまま倒れ込み、水飛沫を上げて湖に落ちた。


――アカリは無事だろうか!? あの子、泳げるのか??


心の中は不安で満たされるが、目の前の狼野郎をなんとかしないと先がない。

畜生、絶対に殺してやるからな!

そう思い俺は右手に持つ赤の短剣に力を籠めその剣身が輝きを強くして、対するヤズデグはその目を爛々と光らせて巨躯は淡く光を纏い始めて――


ざばぁ。


唐突に水面に全身が引き上げられる。


え?

急浮上した際の加重に攻撃の勢いが殺がれた俺とヤズデグは、互いに目をぱちくりさせ、見合ってしまう。


なに、この褐色の堅い大地は。

少しぬるっとする、湾曲した地面。


少し離れた所に、アカリも茫然として座っていた。

良かった、無事だった。


それを確認した瞬間、俺とヤズデグは同時に起き上がり、態勢を整える。

互いに体勢を低くし背を丸めて身体のバネをため、武器を構える。

力を一点に溜め、心を相手に集中させ、そして相手に跳びかかる――


(やめろ)


心の中に重く響く、太く低い声。

身体中に振動が伝わり、痺れたと感じるような重低音。


強力な念話、これはユイのそれよりも強さを感じる。


俺だけでなく、ヤズデグにも響いているのだろう。

体勢を低くし、唸り声を上げながら、しかし尻尾はどうやら垂れているようだ。


(ワシの背で争うつもりか? いま、陸につけてやるから少し待て。

 あと、狼よ、お前の眷属に争いを止めるよう伝えよ。熊が困ってずっと助けを呼んでいたぞ)


それだけ伝わると、悠然と景色が動き出す。

ヤズデグは不貞腐れたように伏せて、苛立たし気に乱暴に、尾を左右に振っている。

そんなヤズデグを横目に見ながら、俺はアカリの近くに寄り、ヤズデグへの警戒を少し残しながら二人で流れる湖畔の景色を眺めることにした。


***


「ユウ! アカリちゃん!」

「ユウさん、ご無事でしたか! 良かった!」


俺達が岸に着くと、エルナとアルジェンティが急いで寄ってきてくれた。

フォルテン達一行パーティーも含め、全員の命の無事。ひとまず取り返しのつかない事態は避けられた、と言ってよいだろう。


「本当にありがとうございました!

 今回は狼達の悪ふざけが酷くて、助かりました!」


陸に上がった巨大な褐色の亀。高さは三メートルもあろうか。

その小山のような存在に向かい、ぺこぺこと頭を下げる銀熊。


「なあ、あのでっかい亀はいったい何者なんだ……?」

「あたしも知らない……昔、聞いたことがあった……ような……??」


目を丸くして驚いているエルナを見れば、彼女ですら初めて見る存在であると分かる。ようやく挨拶が終わったのか、戻ってきたアルジェンティに視線を向けた。


「あれは、この湖の古株ですよ。

 数百年を生きてると言われていまして、昔、人間達からは湖の主ペシアックとか呼ばれておられました。

 ヴィストシャニィさんとも仲が良くて、彼らの仲間でもあるのですがね。

 でも、ワタシとも仲良くしてもらっているのですよ」


(おい狼の、湖を血で汚すなと言っただろう)


どうやら狼の魔人も、この亀の魔人には敵わないらしく、眷属たちを集めて不貞腐れたように地べたに寝そべっている。

その傍らには、禿げあがった山嵐がオロオロとした様子で所在なげにしていた。


(そんな所で不貞腐れているものではない。

 どうせお前達の方からちょっかいかけたのだろう?

 謝る気もないのだろうから、せめて治療ぐらいして行け)


その念話が届くき、ヤズデグの耳がピクリと動く。

おもむろに首を持ち上げ嫌そうにペシアックを見遣り、しかしまるで動じない巨亀の様子を見て項垂れる。


「おい、お前ら。怪我したところを見せろ」


ヤズデグに言われて俺は怪我をしたところを見せる。

やおらデカい舌を出してべろんと舐められた。


何をするっ!?


一瞬、体を固くするが、ヤズデグは構わず舐め続ける。

そのうちに、徐々に痛みが溶けるように消えて行くのを感じた。


……これ、ひょっとして、治癒の効果か?


この武闘派らしき外見に似合わぬ優しい業に茫然としていると、終わったぞと言い捨てて次に向かう。しばらく治療なめなめ行為が続けられたが、やがて全員が自分の足で帰れるくらいには回復できた。


全く、シーニスと言い、ヤズデグと言い、なんでゴツい奴らが治癒担当なのか。

目をまん丸くしているオティリスを見習えよ、と心の中で毒づくくらいしかできなかった。


***


「今回は世話になったな」


別れ際に、シュテイナがエルナに向かって話しかけた。

普段から敵意を込めた視線を送ることを隠さないシュテイナからの礼にエルナは一瞬目を丸くしてから、相好を崩す。


「いやいや、こっちこそちゃんと護衛できなくてゴメンね?

 みんな怪我だらけになっちゃったけど、大丈夫かな」


パタパタと手を振り、微笑みかける。

自分が一番酷い傷を負ったのに、それを気にする気振りは微塵も見られなかった。


彼女はおそらく本気で、護衛が不十分で悪い、と思っているのだろう。

そして乱戦中に叫んだ言葉、絶対に見捨てることはしない、あれも本心から出た言葉なのだろう、今ならそう信じられる。


……なんと、自分が小さいことか。


絶望的な敗北感。

勇者一行だの、魔王軍だのと、チーム分けにこだわる余りに、その者の本質が見えていなかった。武力ではなく、人の器としての敗北。


微笑みを絶やさずに、不思議そうにこちらを見るエルナを見て、シュテイナは相手の純粋さ、心根の優しさを美しいものと感じてしまう。

そして今更ながらに、目の前の存在がいかに美しい容姿を持つのかに気づく。


「……その。今回は助かった。

 またフォルテン達と共に来ると思うが、あれだ、また会ってくれると嬉しい」


とても視線を合わせ続けられず、微妙に逸らしながら気持ちを伝える。

仲が深まった、と素直に嬉しいエルナは満面の笑みで、もちろんだよと応諾。


その様子を斜め後ろから冷ややかに見るプリーツィアに二人とも気づかずに。


「今回は世話になったよ。

 また遊びに来るから、その時はよろしく頼むよ」


フォルテンが微笑みながら挨拶をして去り行く一行。

今回は、シュテイナも手を上げて挨拶をしてくれる。

エルナはそれが嬉しくて、手を振り返す。


そんな様子を横目にエルナに視線を送るプリーツィア。

この一行の中で最も仲が良いと感じていて、今までにいっぱい話をしてきたプリーツィアに、エルナは手を振る。


が。

プリーツィアはそれに応じることなく、ぷい、と顔を背け、行ってしまった。


それを見て愕然とするエルナ。

自分は嫌われてしまったのだろうか? 何かやったかな?


ユウに相談に乗ってもらうまでの数日間、そんな思いに囚われたエルナは暗い表情で過ごすことになった。

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