エピローグ

1

 汐世しおせが大学を無事卒業した。それは同時に想い出図書館の司書に就くということだ。

「では、この引き出しに記憶の本を収めてください」

 春の暖かな日差しが差し込む中、頼鷹よりたかが穏やかに告げ、汐世は自身の記憶の本を「記録室」の机の一番上の引き出しに丁寧にしまった。

 たったそれだけのことだとわかっているのに、気づけば緊張に息を止めてしまっていた。引き出しをすっかり閉めると、汐世はほっと小さく息を吐き出した。

「お疲れ様です。明日には預けた記憶の本はなくなっております。そうすれば汐世さんも、想い出図書館の司書ですよ」

「うん。次は図書館の移動だね」

「ええ。ですが、引き出しの中が空になってからなので……お茶でも飲みましょうか」

 頼鷹に促され、汐世はともに「記録室」をあとにした。本の保存のため、証明を絞った細く長く続く書架通路を進む。

「汐世さん、髪がずいぶんと伸びましたね」


 汐世はこっくりと頷き、自身のひとつにまとめたおさげに手をやった。高校生の時は肩にかかるまでだったのが、今は背の真ん中に届くまでの長さになっている。

「この髪型、司書っぽいでしょ」

「ええ、お似合いです。服装も。汐世さんは割に形から入る方なのですね」

 生成りのピンタックブラウスに紺のカーディガンを羽織り、ベージュのワイドパンツと黒いバレエシューズを合わせている。硬すぎずかつきれいめな印象を持たせる服装だ。

「第一印象は大切でしょ。頼鷹さんの格好も司書らしさを意識してるんじゃないの?」

「私は維央いおうさんの真似をしているだけです」

「ふうん。確かに、先人に倣うのは間違いないね」

 雑談をしているうちに通路の終わりが見え、徐々に明るさに目が慣れてくる。明るい広間には帯屋おびやシュウとベルタが揃ってテーブルについていた。テーブルの下に目をやると、九重ここのえが猫らしく丸まって寝息を立てていた。ベルタが戻ってきたふたりを目で捉えるや否や、席を立って頼鷹のほうへ歩み寄った。困惑の表情を浮かべている。

「ねえ狩野。みんな本当にもう、レドールブルクから……二十二月町から離れちゃうの」

 二十歳を過ぎた現在は少女らしいひらひらふわふわとしたエプロンドレスを卒業し、落ち着いたモスグリーンのフリルも控えめなワンピースに、白いスタンドカラーで袖口がふんわりと膨らんだ長袖のブラウスを重ねている。

「僕はそうだって懇切丁寧に説明したのに」

 帯屋が呆れ顔で言った。

「明日、行き先のメモを『記録室』の引き出しにしまいます。ですので明後日の朝にはここを発つことになりますね。図書館ごとすべてです」

 微笑みを浮かべ、ことさらに感情を乗せるでもなく頼鷹が答えた。

「そうなんだ……残念だな。仕事の関係とはいえ、みんなで会うたびにお茶するの、楽しかったから」

 頼鷹の言葉を聞いたことでようやく諦めがついたのか、ぽつぽつと応える。

「そう言っていただけると私も嬉しいです。ベルタさんには大変お世話になりました。たくさんお話しできて楽しかったです。けれど、今生のお別れではありませんよ。想い出図書館とこうしてつながりができていますから、望めばいつだって会えます」

「そうだってわかっててもさ、何だかしんみりしちゃうな……」

「そんなら君も一緒に来たら良いじゃないか」

 しゅんと落ちこんでつぶやいたベルタに、ずっと様子を眺めていた帯屋が口を挟んだ。

「なっ、そんなの……」

 ベルタは言葉を一瞬荒げたが、すぐにその勢いはしぼんでしまう。

「そんなの、無理だ。ボクにも責任がある。家のこともあるし、もう任せられてる仕事が下っ端のそれじゃないんだ。簡単に投げ出すことはできない」

「まあ、そうだよね」

 帯屋はさほど期待していたわけではなかったのだろう、小さく溜め息をついてそれきりだった。

 どことなく気まずい雰囲気になってしまった。

 ベルタは「ごめん」と近衛兵然とした機敏さで頼鷹へ向けて九十度に頭を下げた。

「空気を悪くしたかったわけじゃないんだ。ここを離れることが確認できたし、このことは『王の伝書鳩』の名のもとに上にきちんと報告するよ」

「ええ、よろしくお願いいたします」

 頼鷹がいつもの笑みを浮かべて応えたので、ベルタはほっとしたように表情を緩めた。椅子に戻って背を預け、伸びをする。

「それにしても、想い出図書館がこの世界を去ると動乱の時代になる、か。実感ないなあ。ボクが物心ついてからしかわからないけど、なんとか平和を保ってたし」

「時空の綻びの影響で世界も少し切り替わるらしく、残念ながらそうなってしまうそうです。ご迷惑をおかけいたします」

「狩野のせいじゃないよ。本っ当、想い出図書館って理の外の存在って感じ」

「ええ。私にもわからないことばかりです」

 頼鷹は話題を切り替えるように辺りを見回して言った。

「では、積もる話もあることでしょうしお茶にいたしましょう。たくさんケーキや焼き菓子を用意しましたので、最後ですから、少しだけ盛大に」

「やった。汐世の司書就任のお祝いも兼ねて、だね」

 ベルタが満面の笑顔になる。その顔を見て、頬杖をついていた帯屋も少しだけ笑った。


 みんなで配膳を手伝って並べた品々はどれも美味しそうだった。

 ドライフルーツをたっぷりと混ぜこんだしっとりとしたパウンドケーキ、狼の口がしっかり入ったスコーンにラズベリージャムとクロテッドクリーム、見た目も涼やかな八朔のゼリー、旬のフルーツを散りばめたタルト、イチゴのショートケーキに新鮮な野菜のサンドイッチ。茶葉もいくつも用意してある。

「これも開けて良いかい」

 帯屋がどこから持って来たのか、深緑をしたシャンパンのボトルを手にして頼鷹に聞く。

「ええと、ベルタさんはこの国の法律ではもう成人でしたね。汐世さんには飲ませてはいけませんよ」

「あたしももうとっくに二十歳過ぎてるんだけど。大学卒業したんだってば」

 すかさず汐世が呆れた声をあげる。頼鷹が眉を下げ、申し訳なさそうに謝った。

「そうでした。どうにも会った当時のお年の印象が抜けなくて」

「全員飲めることだし、一杯目はシャンパンで乾杯しよう」

 帯屋がいそいそと人数分のグラスを配膳のワゴンから移してくる。

「それも良いですが……お茶会ですしせっかくですから、紅茶のシャンパンと呼ばれるダージリンで乾杯はどうでしょう」

 頼鷹は紅茶缶のひとつをワゴンから取ってテーブルに置いた。

「頼鷹君も固いなあ。ふたりはどう思う?」

『ダージリン一択』

「ああそうかい……」

 帯屋の質問に汐世とベルタが同時に答え、帯屋が渋々とボトルを脇に除けた。その間に頼鷹がお茶の用意をする。しばし待ち、蒸らし終わるとそれぞれのティーカップにダージリン・ファーストフラッシュの暖かな琥珀色が注がれていった。湯気とともに爽やかな香りが広間に拡がる。全員に紅茶が回ったタイミングで、九重が紅茶の香りに目を覚ましたのか伸びをした。頼鷹がそれに気づいて声をかける。

「おや、お目覚めですか。今からお茶にするのですが、九重さんもいかがですか」

「あら、いいわね。あたくし用のおやつは置いてあって?」

「勿論、こちらに」

 頼鷹が配膳のワゴンから魚型の猫用クッキーを皿に乗せ、深型の皿に注いだ水とともに供した。

「準備が良いわね。ご苦労様」

「いえいえ。ではみなさん、乾杯いたしましょう」

 頼鷹が席に着いて声をかけると、各々がティーカップを手に持った。乾杯の音頭とともに四つのカップがテーブルの上で揺れる。

 汐世は素敵な門出だな、とお茶菓子に手を伸ばし思った。

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