第324話 氷の指揮者、溶ける
「ツトムさまぁぁぁ!!」
この世に生を受けたのはこの時のためだったのではないかと、ステファニーは九十一階層で確信した。しかし跳ね起きるようにして起きて最初に見たものは、努の笑顔ではなく見覚えのある白い天井だった。
アルドレットクロウのクランハウスにある医務室。そこのベッドに寝かされていたステファニーは、ギョッとした様子の医務員に今の状況を説明された。
どうやら自分は九十一階層で気絶してからは死んだように眠り、一日中目を覚まさずにここで寝たきりになっていたようだった。それからは女医たちに体調を確認されながらヒールやメディックをかけてもらい、体内の環境を整えるポーションを処方され今日は安静にするよう念を押されてから部屋へと帰された。
(……少し身体が軽いような?)
普段から専門の女医からメディックなどは受けているし、身体に良いポーションも常時支給してもらって毎日飲んでいる。だが今日はやけに効きが良いように感じ、事実いつもより身体が軽かった。
そんな現象にステファニーは軽く驚きながらも自分の部屋の扉を開け、天井に張ってあるツトム様の顔写真を見て瞬時に顔を青ざめさせた。
(あ、挨拶を、していませんわ!? 一日も!?)
女医が言うに自分は一日中寝たきりだと言っていたので、丸一日ツトム様に挨拶をしていないことになる。ステファニーはすぐさまツトム様に失礼のないよう身支度を整えるため、洗面台へと駆け込む。そしてすぐさま準備しようと鏡を見たところで、思わず息を呑んだ。
「え……?」
ステファニーの顔は弟子になる前までは健康的で整っていたが、習慣となってしまった睡眠不足と携帯食料ばかり食べる偏った食生活によって大分荒れていた。それでもヒールによるゴリ押しで何とか誤魔化せてはいたが、目の下にありありと浮かんでいる青っぽい隈だけは取れなかった。それをツトム様の前でだけは隠すために化粧をしていたのだが、鏡の前に映る自分の目の下からは隈がさっぱりと消えていた。
今現在ヒールやメディックによる美容効果についても研究は進んでいるが、常態化している隈やシミなどは時間をかけなければ中々落ちない。そのため一日寝ただけで隈が消えていることにステファニーは驚いたと共に、一つの確信を得ていた。
(ツトム様のおかげですわ……!)
それほどまでに自分にとって努の影響力は凄まじいのだと再認識しながらも、今日は念入りに隈消しをしなくていいことを喜びながら髪型を整えた。服も久しぶりに私服を着用して何処も不備がないか確認する。
「……あれ?」
そして完璧に整えたところでいざ部屋に戻ってツトム様に挨拶をしようと思ったのだが、何故か普段よりも心が掻き立てられなかった。
(……何故ですの?)
それ自体は何も変わっていない。だがどうにもそれが今まで挨拶をしていたツトム様ではないように思えてしまい、ステファニーは首を傾げた。そして部屋にあるツトムの写真を一枚一枚見比べていくと、あることに気付いた。
(全部、笑っていませんわ……)
努は普段から笑顔を見せることは多いが、それはコミュニケーションを円滑にするためにしていることが多い。だがこと神のダンジョンに関することになると、途端に純粋な笑顔を見せる。そして昨日その笑顔を努から向けられたステファニーには、既にツトム様が
そして努から言われたことも一語一句違わずに記憶している。努様に認められたと共に、今の自分をたしなめられもした。少し困った顔で視野を広く持てと仰られた。
「んぅ……! くふふぅ……!」
だが、あそこまで仰ってくれたことは本当に嬉しかった。自分の苦労を誰よりもよく理解してくれ、認めてくれた。九十階層で奇跡を体現なされた師が、弟子である自分を肯定してくれた。その嬉しさは普段から自分を見てくれて挨拶も受けてはくれるが、実際に何も返してはくれないツトム様を越えていた。
しばらく自分を抱きしめて身悶えていたステファニーはふと我に返ると、無数に張られている記事へと目を向けた。
「視野を広く、ですか……」
この部屋は自分の癒し場であり、立ち回りを学ぶ場所でもある。そしてツトム様に関する記事と一年前に授けて下さった指南書以外いらないと思っていた。だが、努様はそれが正しい道だとは言わなかった。自分の背に付き従うのは許して下さったが、自分だけを見るなと。
ステファニーは壁に張っている努が笑っている写真の下へ歩くと、それに優しく手をかけた。
「ツトム様……」
名残惜しそうにその紙を撫でた後、ステファニーは丁寧にその記事を外した。そして軽く頬擦りをした後にベッドへそっと置く。その後も一枚一枚丁寧にツトム様の記事を外し、最後にバリアの台座を作ってから天井の写真も外した。
そして努が通っている店からいくつか買ったコレクションの数々も一瞥した後、取り敢えず必要なさそうなものは分けた。数時間かけて部屋の整理を行ってみると、ほとんどが努関連のものだったことを思い知らされた。
「……寂しくなりましたわね」
だが今までのようにツトム様だけを見るわけにはいけない。正直なところ努様を越えられるとは思っていない。だが彼から保証しているとまで言われたのだから、妄想の中に閉じこもるのはもう終わりにしなければならない。
大分寂しくなった自分の部屋を見て物悲しくはなったが、これからは他の者にも目を向ける。そしていつか努と肩を並べられるその日を目指し、ステファニーは部屋を出た。
▽▽
「氷の指揮者だとは思えない顔してるっすね。師匠、ファンから刺されるんじゃないっすか? あとエイミーにも首を掻っ切られるといいっす。ずしゃあぁぁぁ」
ステファニーと話し合いをした翌日。朝刊に飾られていた師弟愛と書かれた記事にある写真をこれ見よがしにテーブルへ広げながら、ハンナが手を
「別にわたしは気にしてないけどね」
だがいつもなら半目で睨みながら乗っかってきそうなエイミーは、意外にも寛容な態度を示していた。そんな大人しいエイミーにハンナは拍子抜けしていて、努も少し驚いた。
(……何か企んでそうだな、完全に外向きの態度だし。あと怒りを隠し切れてない感が出てるし)
いつもならにゃんだとー! とでもいって記事に食いつきそうなものだが、今日は澄ました顔のまま皮目に沿ってナイフを入れて綺麗に身を食べている。だが最近前髪を上げているため、こめかみが不自然にひくついているのもよく見えた。それに伴って良く観察してみると、ナイフの刃先も若干怪しく震えている時が多かった。
(まぁ、いつもみたいにせっつかれるよりはいいけど……一体何を企んでるんだか)
エイミーの態度からして彼女が自分を好いているのは何となく察しているが、それでも努はクラン運営と異世界人であることを考慮してこの世界では深い関係の者を作ろうとは思っていない。そのためエイミーがただ自分に愛想を尽かしたというのならそれでいいのだが、怒りを隠している様子からして違うだろう。
そんなエイミーを注意深く観察していると、パンを千切ってスープに漬けているコリナが遠慮がちに話しかけてきた。
「そういえばツトムさん。昨日神台でノルトの名前を出されましたよね?」
「あぁ、うん」
「彼、大分喜んでましたよ。それとあの場で名前を出してくれてありがとう、と言っていたので一応お伝えしておきます」
「あー、そういえばノルトはコリナと同じクランだったか。今も交流あるんだ?」
ノルトというドワーフの男性は元々白撃の翼というクランのリーダーで、攻撃的な立ち回りをする白魔導士として知られていた者だ。ただコリナはパンを咀嚼して飲み込んだ後に言いにくそうな顔をした。
「元々そこまでの交流はなかったんですが、ツトムさんが九十階層で活躍された後からはギルドでたまに声をかけられるようになりました。それに昨日の神台を見てからは、ギルドで出待ちされてですね……」
「なんかごめんね」
「いえ。あ、それと一つお聞きしたかったんですが、ミルウェーさんはどこの人ですか?」
「あぁ、金色の調べの二軍ヒーラーだよ。銀色の狐人で、ユニスの後輩っぽい人」
「…………」
「まぁわからないのも無理ないよ。最近はユニスのスキル開発手伝ってるみたいで神台に映ってないし」
ミルウェーという女性は金色の調べの二番手ヒーラーで、銀色の毛並みが特徴的なユニスの後輩である。彼女は現在ユニスにスキル開発の助手として使われているが、以前から神台を見てチェックしていた努は割とその腕を買っていた。
「あ、ちゃんとコリナの名前もしっかり出しておいたから、そこは安心してね」
「それは、ありがとうございます。過分な評価だとは思いますが……」
「いやいや。コリナ率いるPTも大分良くなってきているようだし、九十階層の突破を何よりも期待しておりますので今後ともよろしくお願い致しますよ」
「あ、圧力をかけるのは止めて下さいぃ……」
「けっ」
恐縮しきりのコリナに冗談めいた圧力をかけていると、その間に入るようにアーミラが忌々し気な声を上げる。俺の女に手を出すなとでも言わんばかりの顔つきをしているアーミラに対して、努はやれやれといった具合で首を振った。
「そんな怖い顔しなくてもいいのにね」
「弟子にうつつを抜かしてる野郎には、このくらいの顔して当然だろ?」
「はいはい、アーミラにも期待してますよ。ねぇダリル?」
「……困った時だけ僕に話しかけてくるの、止めませんか?」
「あれ、バレた?」
「…………」
「お詫びにお肉あげるよ」
「……今日はこれでもいいですけど、いつも通用するとは思わないで下さいね」
最近努の言葉には簡単に騙されなくなってきたが賄賂には弱いのか、ダリルはムッとした顔のまま尻尾は揺らしつつ差し出された皿を受け取った。
「いつも思ってましたけど、ツトムさんのは小さいですよね……?」
普段食べているものと違う随分と小さな肉に関心を寄せながらも、それを口にした途端にダリルは驚いたように顔を硬直させた。ダリルが普段食べている噛み応えのあるTボーンステーキとは違う、柔らかくも噛めば噛むほど肉汁が溢れ出るヒレステーキに驚いたのだ。
そして我慢出来ずにそのまま全部口に入れてもきゅもきゅと食べている姿を見て、ガルムは間抜けな幼犬でも見ているような顔をしていた。リーレイアはその姿がツボにでも入ったのか顔を震わせながらナプキンで口元を隠している。
「ん?」
そんな緩い雰囲気の中で朝食を取っていると、クランハウス内にチャイムの音が響き渡った。こんな朝早くに珍しいなと皆一様に首を傾げていると、甲高い声が外から響いてくる。
「ここを開けるのですー!!」
「せ、先輩!! 何やってくれてるんですかっ!?」
「……取り敢えず、朝食が終わるまで無視して良さそうだ。あ、出なくて大丈夫です」
久々に活きの良い声を聞いて何だかげんなりした努は、出迎えに行こうとしたオーリを止めて食事を再開した。
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