007 獣

 扉に背を預けて、うっつらうっつらなりながら、どうにか起きていた。


 あくびをしながら、部屋の中に耳を澄ます。


 別に暴れるような音はしていなかった。


 花宮古はぐっすりと眠っているようだ。


 時々寝返りを打つ微かな音は聞こえた気がしたが大したものじゃない。


 俺は手のひらに握りしめた、小っちゃいロザリオを見た。


 こんなものが血清とは思えねぇが、アイツがそうだというんならそうなんだろう。


 なんせ現役の吸血鬼ハンターさんなんだから。


 とはいえ、こいつを使うのは避けたいものだがな……。


 ため息をつく。


 弟たちが眠りについて家は静寂に包まれていた。その分、違和感のある音には敏感になる。


 ロザリオを握りしめ、目をつむる。


 中の音に集中していた。




 何時間が経っただろう。


 眠気が強まっていく中、ギィとベッドの軋む音が聞こえてきた。


 頬を捻り、無理矢理覚醒させる。


 唇をかみ、痛みを持続させ眠気を殺す。


 素早くドアを開け、中に入り閉める。


 部屋の真ん中、花宮古が立っていた。


 彼女だが彼女じゃねェ。


 夜闇の中、紅く光る目があった。


 その目はじろりと俺を捉える。


 ゆっくりとこちらを向いていた首がびた、と止まる。


 いつもの挙動じゃねェ。


 もっと違う、魔物の挙動だ。


 花宮古はそのまま素早く走り込んでくる。


 攻撃を恐れ、俺は正面に腕で盾を作る。


 花宮古はまっすぐに俺に突っ込んできた。


 だが、すぐ前でくっ、と止まる。


 そのまま、跳び。


 両手を合わせて握り。


 思いっ切り上から俺の頭を殴りつけた!


 頭蓋に衝撃が走る。


 視界が一瞬眩んだ。


 瞳でぎろりと花宮古の動きを追う。


 一歩後退って俺を窺う。


 頭を抑え、痛みをこらえる。


 相手は今動いてねぇ。


 だが、あの動きはいくら何でも近づいて殴るには素早すぎる。


 だからと言って遠くから何ができる。


 ただでさえ部屋は暗闇の、見えにくい状態だっていうのに。


 考えるのも面倒くせぇ。


 拳を前に構える。


 なりふり構っちゃいられねぇな。


アンプルも使ってすぐにお前の動き止めてやるからな——‼


 一歩前に飛び出す。


 花宮古は動かない。


 拳を前に突き出し、大降りに殴りかかる。


 無論、花宮古は何度も見た、いつも通りの動作で俺の拳を避ける。


 身をかがめて、大ぶりの拳を避ける。


 予測済みだ。


 俺は蹴りを入れる。


 足に引っかかればラッキーだと思ったが、飛んで軽くかわす。


 当たる気がしねぇフットワークだ。


 花宮古は着地後すぐに片足で床を蹴り。


 再び俺の懐に飛んできた。


 いつもなら竹刀が胸にめり込む頃合だ。


 だが今日は違う。


 花宮古の体自体が飛び込んでくるのだ。


 その目に獰猛な獣の意思を宿して。


 俺を見ているんじゃねェ。


 むきだしの俺の首筋。


 俺の血の流れだけを見ている。


 今のこいつは、血を求める獣だ。


 荒い息が迫る。


 彼女の指が俺の肩を掴み。


 握る。


 人のものとは思えないほど、強い。


 これが、吸血鬼化が進んでいるってことか……!


 俺の力でも引きはがせそうにない。


 今思えば、出会った時に俺をふっとばしてしまったのは、この吸血鬼化の影響だったのかもしれねェ。


 肩を掴んだ花宮古の動きは素早い。


 そのまま彼女は大きく口を開ける。


 口内に微かな光を反射する白い牙が見えた。


 その牙は俺の首筋に向かって近づき————


「かかったな」


 一瞬、花宮古の動きが止まる。


 それがチャンスだった。


 指に握ったアンプルを、俺の胸の中に居る花宮古の首筋にぶっさす。


 俺にしては早く、華麗な手さばきだったはずだ。


 途端、花宮古が床に膝をつき、細く唸り始めた。


 床にコトリとロザリオは墜ちた。


 首をかきむしり、俺を睨んだ。


 床の上にうずくまり、低く叫んだ。


 けれどそれも一瞬。


 すぐに黙り込んで、ぴくんとも動かなくなる。 


 不安が浮かび、そっと覗き込む。


 耳を澄ます。


 すーすー、と寝息が聞こえる。


 それは平穏の象徴だ。


 吐息を吐く。胸をなでおろす。


「…………くやしいな」


 俺は彼女を抱きかかえ、蒲団の上に再び寝転がせる。


 そして廊下に出ると、元のように扉の前に胡坐をかき目をつむる。


 静かな。


 どこまでも穏やかな夜の訪れを感じた。




 ごん、と扉の開く衝撃で目が覚めた。


「おはよう、桑ノ助」


 華やかな、聞き慣れない声に目を向けると、花宮古が穏やかに微笑んでいた。


「おはよーさん」


 ぼそりと呟く。


 「ウム」、と大きく彼女は頷いた。


 その顔は昨日の夜の奇怪な様相を全く思い出させない。


 普段通りの彼女だ。


「昨日はどうだった」


「肩を掴まれた」


「…………私か」


「安心しろ、ちゃんと眠らせた」


 ロザリオを彼女に投げ返す。

 

 昨日もらった時よりも軽くなっている。


 彼女はその重みに少し脅えながら、俺を心配するように目を潤ませた。


 俺は手をひらひら揺らす。


「無傷だ。俺を舐めるんじゃねェよォ」


 彼女はそれで少し安心したように口元を緩めた。


 それは、信じられないほどに穏やかな表情だった。


 俺はゆっくりと立ち上がり、不安げな彼女を横目に階段を下りる。


「多分、朝飯は味噌汁とかだと思うぜ。うちの妹が作る味噌汁はうめぇからな」


 ぴたりと足を止めて、彼女にもう一度呼びかける。


「ああ。……わかった」


 小さくつぶやく。


「楽しみにしている」




 だが彼女が降りてくることはなかった。


 花宮古はその後、下に降りてくることなく姿を消した。


 二階の窓が大きく開かれていたから多分そこから逃げ出したんだろう。あのでっけぇ十字架もない。


 布団の上にはメモ帳が一ページだけ残されていた。


 ただ一言。


『世話になった。この恩は忘れない』


 そう書かれていた。


「何が恩は忘れねェだよ」


 紙を見つめる。部屋に独り。


 下から妹の『おねぇちゃんまだー?』と急かすような声がする。


 それはどこか遠くから聞こえてくるような、そんな現実味がねェ聞こえ心地だった。


「ンな遠慮するんじゃねェ、テメェ程の女がよォ」


 ぐしゃりと、紙を握りつぶした。

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