006 一つ屋根の下
迂闊だった。
もう一ヶ月も前の話になる。
桑ノ助とも出会う前だ。
私はノスフェラトゥとの死闘の末、自分の攻撃を完封され奴の血の糸によって体を裂かれた。
そして身動きできないまま、情けなくあの化け物に血を吸われてしまった。
それ以来、私の体を気味の悪い血が流れている。
いつ発芽するかも分からない、邪悪の芽。
悍ましい。肌をかきむしってしまいたい。
実際、かきむしったことがある。
けれどその傷跡はすぐに綺麗さっぱり消えてしまった。
驚異的な治癒能力。
それは自分の体があの化け物と同じように作り替えられ始めてあると言うことだ。
血を吸い生きる殺人鬼 ノスフェラトゥ。
退屈を嫌い、闘いを好む魔物。
この日本に来たのもいつかは分からないが、彼女に殺された人間の数は分からない。
まだ見つかっていない死体もあるだろうから……。
橋を渡る。
遠くに見える無数の光は住宅地の灯り。
それらを遠くに見ながらトボトボと街灯の薄黄色い灯りの下を歩いていた。
「信じられないだろ? 私がそんな退治人だなんて。夜の町、吸血鬼が跳梁跋扈しているなんて。今時、時代遅れも甚だしい」
笑ってしまう。
桑ノ助は笑わなかった。
いつもよりも真剣に、私の話に耳を傾けている。
「いや、それならテメェの強さも納得だ。道理でなかなか勝てねェ訳だ。本物の戦士なら、まだ俺も力が足りねェ」
「おまえはまたそれか」
いつでもどこでも戦いのことばかりな男だ。
それを何の躊躇いもなく言えるのだからすごい奴だ。
「力があって、お前は何を望むんだ」
「……?」
「そんなキョトンとするな。前から思っていたことだ。私に勝つことに何の意味があるのか、とな。お前は十分強いだろう」
「ああ、強ぇ。だが、テメェのような、上がいる」
それはそうかもしれない。だが、お前は別にそれ以上強くなる必要はないはずだ。
見上げる桑ノ助の顔が見えない。
いや、見れない。
なんだかその顔を見てしまうことが、認めてしまうことがとても恐ろしかった。
私は彼の声だけを耳に残していたかった。
「俺は、俺を慕ってくれる奴がいる。弟に、妹、うちの一年たちもだ。それに、ダチのテメェもだ」
背中をばふん、と叩かれる。
衝撃に揺れて彼の顔を見上げてしまう。
街灯の光がまぶしくて、顔は見えなかった。
ほっとしているのに、寂しさも感じてしまう。
「俺はお前らのその気持ちを裏切れねぇ。だから強くなりてェんだ」
「そうか……」
羨ましいな。
お前の、まっすぐさが。
「テメェの強さは望んだもんじゃねェのかよ」
「そうだな……。強くあるべきだったから、強くなっただけだ。そう大層な信念があったわけでもない」
でも……そうだな。
くだらないことだけれど、理由はあった。
私の、戦う理由。
星空が、頭上に広がっていた。
「夜が好きなんだ」
星の見える空が好きだった。
暗く、澄んだ空が。
冷たい風の流れるこの時間が。
「その夜に、あんまり非道な事をしてほしくなかったんだ……。夜の、助けになりたかったんだ」
「夜を助ける……ねェ」
「子供みたいな話だろう。実際、子供なんだ、こんな理想は。それでもそのために戦い続けていた……。だけど」
ああ、だけれど。
その夜が、今恐ろしいほどに近い。
飲み込まれてしまいそうなほど。
食い尽くされてしまいそうなほど……。
「私はその夜を……荒らす者になりかけている。吸血鬼の血が、私自身を作り変えてしまおうとしている……」
それは闇から伸びる手のように。
それは心を縛る呪いのように。
ひっそりと。
だけど確実に私を蝕んでいる。
それが————怖い。
体が微かに震える。
怖がるな、私。
それまでにノスフェラトゥさえ倒してしまえば、この血の騒めきも収まるんだ。
その為に昨日から町中を追い回したのだ。
その努力があれば、恐れることはないはずだ。
それに、桑ノ助の前だ。
恐怖をこれ以上見せるな。
これ以上迷惑をかけさせるわけにはいかない。
彼は電話を取り出した。
私の真横で手慣れた手つきで操作を行う。
彼と比べれば端末など豆粒のように小さい。
それを器用に扱い、電話に出る。
話している感じ、家族のようだった。
帰りが遅くなったことの連絡だろうか。
そう耳を澄ますと。
「ダチを一人連れて帰る。今日は泊めるつもりだ」
とんでもないことを言い放っていた。
「いやだ! 私は帰る‼︎」
「今日は泊まってけ! 本調子じゃねぇのは見りゃ分かるんだよ‼︎」
「だから友人の家に飛び入りで泊まれと⁉︎ 断る‼︎」
「あー……もう諦めが悪ィなァーテメェッ」
桑ノ助に腕を引っ張られながら、足を引っ張りながら、もみくちゃになりつつ家まで連れてこられる。
普段なら容易に避けられると言うのに、こう言う時に限ってこれだ。私が疲れているというのもあるだろう。
ずるずると玄関前で暴れ続ける。
絶対に敷居は踏むものかと塀にしがみつく。
彼の家は一軒家だった。
「ここまで往生際が悪ィとは思わなかったぜ……」
「なんとでも言え!」
何より、私は夜が近づくに連れて私の体が自身の言うことを聞くかも分からないのだ。
もしも真夜中に無理矢理暴れてしまえば……。
そう考えるだけで恐ろしい。
だから何があろうと私は家に入るわけには……。
ぴしゃりと家の戸が開いた。
「うるさいなぁ! 桑兄ぃは!」
ちっちゃい女の子だった。お玉を片手にそこに立っていた。
最初はがみがみと叱るような顔をしていたのに、私と目があった瞬間黙り込んで。
しばらくして。
「桑兄ぃが無理矢理女性を連れ込もうとしてるぅうう‼︎」
誤解された。
「無理矢理じゃねェ。強引にだ」
「変わんないよ! あー……天国のお母さんとお父さんになんて言えばいいの……」
「おふくろもおやじも死んでねぇだろ」
「人間はいつか死ぬんだよ⁉︎」
「まだ死んでねェって言ってんだよ‼︎」
「おねぇさん早く逃げて! うちの兄がケダモノになる前に!」
「あ、いや、その」
「なんなら今から通報しますね。でんわ、でんわ……」
「いや! 別にそう言うことはされてないから大丈夫だ!」
声を張ってついそう言ってしまった。
少女はそうすると「あ、これはうっかり」と恥ずかしそうにして。
「じゃあ大丈夫そうですね! おねぇさんの分もご飯用意しますから待っててください!」
言って、タッタッタッと奥に消えていく。
「……あれは妹さんか……?」
「ああ……そうだが」
「…………」
「断れなく、なっちまったな」
流石に妹さんの善意までここで断るわけには行かなかった。
結局私はご飯をいただき、なんだかんだと押し切られてしまい、二階に続く階段を桑ノ助と共に上っていた。
脛が痛い。
何故だか分からないがやたらと桑ノ助の弟に脛を蹴られたのだ。『兄ちゃんが狂ったのはお前のせいだ!』とかなんとか。
「最近クソ映画をよく借りてくるんだが……その度にうちの弟が騒いでな……」
「アンチクソ映画党の人間か」
「大体の人間そうだろ」
階段を上がりながら気を紛らわせるような事を吐く。
弟たちが群がって、わーわー騒いでいたのにも納得のいく人間だ。
「きっとラ・ラ・ランドやミッドサマーを絶賛する目の肥えた映画人だな……」
「偏見すぎる」
とん、と階段を上り終えて右を見る。
「泊まるのは俺の部屋でいいか? 俺ァ廊下で寝るからよ」
二階の階段を上がってすぐの部屋だった。
前を歩く桑ノ助はガチャリと扉を上げる。
中は右端に蒲団と毛布が乱雑に端に並べられていた。
左端には、漫画が高く積み上げられている。
その傍らには放りながられたような後の教科書、ノート。生活感の溢れる部屋だ。
ぱっと彼は手を広げた。
「適当に使ってくれ」
太っ腹にそういう。
気が引けてしまう。
指が虚空でうろつきかける。
ぴんとそろえて正面で否定するように揺らした。
「いやいやいや。流石に気が引ける。せっかくだが私は帰らせていただくぞ⁉」
「ンな不安抱えたまんまか」
言葉が詰まる。
見透かされている。
「……お前の家族も襲いかねないんだぞ」
「テメェにゃ襲わせねェよ」
断言する。
はぁ……とため息をつき、背中の十字架を壁に立てかけた。
そして私は布団にぽすん、と腰を落とす。
そのまま体育座り。
入り口に立つ桑ノ助は絶対にそうはさせないと、迷いも何もない確かな強い声だった。
それは夢でも、妄想でもない。
「私に勝ったことないじゃないか」
泣きそうになる顔を膝にうずめる。
この顔を見せたくはなかった。
これ以上心配をかけさせたくなかったから。
「だとしても襲わせねェ。喰らいついて離すもんかよ」
言い捨てる。
威勢が良いもんだ。
浮かぶ涙を拭って顔を上げる。
「私は強いぞ」
「知ってるよ。だが、俺も強ぇぜ」
「あぁ……」
言っても聞かないだろう。
最初からこの男はそんな奴だ。
私の話を聞いても、私の事情はお構いなしで真正面からぶつかってくる。
そういう男だというのはずっと感じている。
でもそれを気に入ってる。
私は、くしゃくしゃの毛布を取り、ぐるりとそれにくるまって蒲団に寝転がった。
笑えている。
「知ってるよ、そんなこと」
もう、笑えていた。
眠ってしまおう、今日は。
彼を信じて。
いや、彼がいるから。
彼に小さいロザリオを投げる。
それは手のひらに収まるほどのサイズだった。
空中でそれを掴んだ彼だが、何が何だか分かっていないらしい。
「それは連盟特製の『
「するとどうなるんだ」
「眠る。簡単に言えば、一時的に吸血鬼化を遅延させる効果がある。あくまで治る訳じゃない。けれど、それで一日はしのげる」
使いすぎるとその効能は薄れていくが、今日一日くらいはかまわないはずだ。
ロザリオを照明に照らしながらキラキラ輝かせ観察している。
桑ノ助はそうやってその血清に夢中だった。
私はそれをにんまりとしつつ見ていた。
「頼んだぞ」
そう、聞こえないくらいに小さく、呟いた。
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