42 5月31日(火) ティファニーで値引きを

 今日、テレビで映画の『ティファニーで朝食を』を放送していて、妻が一生懸命に見ていた。言うまでもなく、オードリー・ヘプバーン主演のヒット作品だ。僕も途中から妻と一緒になって見た。すると、映画の中に宝石店のティファニーの店内が映し出されるシーンがあって、僕は思わず「ああ、店内はこうなっていたよ」と声を洩らしてしまった。昔、ニューヨークのティファニーに行ったことがあったのだ。そして、同時に『値引き交渉』って言葉が僕の頭の中に反響したんだ。


 高級宝石店のティファニーで値引き交渉? それって似合わないでしょ? 読者の皆様はきっとこう思われるんじゃないかな。でも、聞いて欲しい。こんな話なんだ。


 以前、仕事で会社の人たち数人と米国に行った。ニューヨークで予定の仕事をこなした後で3時間ほど余裕ができた。すると、同行の後輩が僕にこう言ったのだ。後輩は新婚だった。


 「ナガシマさん。妻にティファニーで宝石を買って帰りたいんです。ティファニーまで一緒に行っていただけませんか?」


 僕は用事もなかったので、後輩と一緒に5番街のティファニーに行ったのだ。思ったよりずっと小さな店だった。奥さんのプレゼントを探す後輩と離れて、僕はぶらぶらと店内を見てまわった。僕は宝石を買って帰る予定はなかったのだ。


 こう書くと、女性の読者の皆様の声が聞こえてくるよ。「ティファニーまで行ったんだったら、奥さんにお土産を買って帰るのが普通でしょ」ってね。この日記も1ケ月半も続いたので、その間に女性の読者の皆様からさまざまなお叱りを受けた。それで、いつ何を言われるか、だいたい分かってきたのだ。でも残念でした。このとき、僕は仕事で米国に行ったので、お金を持っていなかったのだ。お金がなければ、宝石なんてとても買えませ~ん。女性陣から「カードがあるでしょ」って声が聞こえてきたので先を急ごう。銀行にもお金がありませ~ん。


 店内はかなり込んでいた。映画に出てくるような、いかにも富裕層といった出で立ちの老夫婦がゆっくりと宝石を選んでいた。しぶい中年の男性がドレスアップした若い女性をエスコートしながら宝石を選んでいる。店内はそんなお客で一杯だった。店側にも客側にも高級感があふれていた。まるで、映画の世界だった。日本の日常とは違う空気を僕は楽しんだ。


 僕は混んでいる店内をゆっくりと歩いた。すると、僕の眼の前に誰もいない一画が現われた。その一画には客もいないし、店員もいなかった。ガラスのショーケースだけが照明に光っていた。何か特別な理由があってその一画に誰もいないというのではなくて、さっきまで人の流れがあったのだが、たまたまその一瞬だけその一画に人がいなくなったという感じだった。


 近づいていくと、ショーケースの上に一枚の紙が置いてあるのが見えた。僕は何気なくショーケースの前に立って、その紙を覗き込んだのだ。


 すると、ショーケースの向こう側のちょっと離れたところで接客をしていた黒人のお姉さんが血相を変えて僕の前に走ってきたのだ。お姉さんと僕はショーケースをはさんで向き合うような形になった。すると、お姉さんは僕の眼の前の紙をすばやく手に取ったのだ。なんだか奪い取るような仕草だった。そして、両手を背中にまわして、その紙を自分の背中に隠したのだ。それから、ゆっくりと僕に顔を向けた。若くて美人のお姉さんだった。お姉さんが何ともばつが悪そうな顔をして、僕の顔を見た。僕もお姉さんの顔を見つめた。お姉さんと僕の視線がショーケースの上でぶつかった。


 すると、お姉さんはにやりと笑ったのだ。僕もお姉さんににやりと笑い返した。そして、僕とお姉さんは、お互いににやりと笑って相手を見つめながら、何も話すこともなくその場を離れていったのだ。


 だから、僕がその紙を見たのはほんの一瞬だった。だが、僕にはその紙が何かが分かったのだ。


 その紙には表が書いてあった。表には4つの列があって、一番左に商品名が英語で書いてあった。英語は当たり前ですね。その横の3つの列には数字が並んでいた。僕には3つの数字の一番左、つまり商品名の横は定価だと分かった。そして、その横には、客が値引きを要求してきたときに店側が許容できる限界の金額が書いてあった。そして、一番右には客がさらに第2の値引きを要求してきたときに、店側がさらに値引きできる限界の価格が書いてあったのだ。一番右の数字は定価の1/5から1/3だった。


 さっき書いたように、僕がその紙を見たのは一瞬だったが、こういうことが分かったのだ。


 しかし、こんな高級店でも値引き交渉をする人がいるんだなあ。わざわざ、あんな紙を店が作って店員に渡しているんだものなあ。しかも、その値引きは最初の値引きと、それに続く第2の値引きまで用意されているのだ。ということは、実際に第2の値引き交渉をする人がいるに違いない。


 それにしてもと僕は思うのだ。一番右の数字は定価の1/5から1/3だった。つまり、その数字まで値引きしても店に利益があるということだ。こんな数字を見ると、定価で買うのがなんともバカバカしくなるじゃないか。


 ニューヨーク5番街にある高級感あふれる宝石店と値引き交渉の紙。そして、定価の1/5から1/3という数字。・・そのミスマッチがなんとも奇妙で、僕は思わずティファニーの中を歩きながら苦笑してしまった。さっきの黒人の美人のお姉さんは、うっかりショーケースの上に絶対に客に見せてはいけないその紙を置いたままで接客をしていたというわけだ。そこへ、何も買う予定がない僕がぶらぶらとやってきて、その紙を見てしまったのだ。


 僕は後輩にはその話をしなかった。だって、定価で宝石を買った彼にそんな話をするのは残酷じゃないか。


 さて、そんなことを思い出した僕は、妻と一緒に『ティファニーで朝食を』を見たのだ。


 見終わった妻が言った。


 「なあんだ。『ティファニーで朝食を』っていう映画だから、ティファニーで朝食をとるシーンで終わるのかと思ったら、こんな終わり方なのか。なんかつまんない」


 映画のストーリーをここに書くのはルール違反だから書かないが、妻はもっとロマンチックな終わり方を期待していたようだった。しかし、僕はそれを聞いて笑ってしまったのだ。


 「君ねえ。ティファニーって宝石店だよ。なんで宝石店が朝食を出すのよ」


 「あっ、そうね。じゃあ、日本語の『ティファニーで朝食を』ってタイトルが悪いんだ・・・」

  

 そう言って、妻の愚痴の矛先は日本語のタイトルの方に移っていった。ちなみに、後でネットで調べてみると、映画の原題は『Breakfast at Tiffany’s』なので、日本語訳が間違っているわけでもないのだが・・


 まあ、ティファニーも値引き交渉も僕たち夫婦には縁のないことだから、どうでもいいのだが・・


 今日のよかったことは、ティファニーの値引き交渉の紙のことを皆さんとシェアできることだよ。


 ネットで調べると、ティファニーでは映画の影響を受けて、2017年にブランド初となるダイニングスペースが店内にオープンしたらしい。ということは、映画の影響で、妻のように、みんなティファニーの店内で食事ができるって思ってしまうんだ。


 みなさん、ぜひティファニーに食事に行ってみてください。






 



 


 


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