第21話:面白いものを見たわ
「
「あら、結衣さん。来てくれたの。嬉しいわ。」
個展の会場に入ってすぐのところ。
挨拶する結衣を見て嬉しそうに表情を綻ばせたのは、40歳ほどの女性だった。
春らしい淡い桜色の着物に身を包み、帯の艶やかな水色との対比が美しい。
いかにも書道の先生という装いだ。
「あら、そちらの男の子はまさか?」
「はい。私の彼氏の穂崎渚先輩です」
「まぁ。初めまして、榊原庵寿と申します」
丁寧に挨拶してくる庵寿に、渚も慌てて「初めまして。かん……結衣さんとお付き合いさせていただいてます、穂崎渚と申します」とこうべを垂れる。
「ふふっ、まるで結衣さんのお母様になったような気分」
「そうですよ、先輩。それじゃあまるで親への挨拶みたいじゃないですか」
あ、と思って顔を上げると、ふたりが笑顔を浮かべながら渚を面白そうに眺めていた。
「それにしてもさすがは結衣さん、えらく可愛い顔をした彼氏さんを捕まえたわね」
「盗っちゃ嫌ですよ、先生」
「さてさて、どうしようかしら」
そんな冗談を交わしつつ、まるで品定めでもするかのように頭の上から足のつま先まで庵寿にじっと見つめられた渚は、どうにも生きた心地がしなかった。
「ところで結衣さんと一緒に見に来てくれたってことは、渚君も書道をやっているのかしら?」
「あ、はい。でも大学から始めたのですごく下手で」
「そうそう、先生聞いてくださいよ。渚先輩ったらもうホントに酷くて。さっきの記帳なんてまるでミミズが地面を這いまわるみたいなんですよ!」
そう言いながら思い出したのだろう。結衣が笑いを堪えようと、ぷっと頬を膨らませる。
「あら珍しい。結衣さんがそんなことをおかしそうに話すなんて。以前のあなたなら『書道を舐めてます』って逆に怒っていたのに」
意外だとばかりに首を傾げる庵寿に、結衣も「あれ?」と頭を捻った。
確かにその通りだ。
なのにどうしてこんなに面白いと笑えるのだろう?
結衣自身、すごく不思議だった。
「ふーん。結衣さんがこんな風になるなんてね。面白いものを見たわ」
「からかわないでくださいよ、先生。それに面白いものと言ったら、こっちの方がもっと面白いですよ」
結衣が庵寿の背後に聳える作品を見上げた。
縦は大人の身長二人分。横はこれまた大人が両腕を伸ばしてざっと三人分はある巨大な紙に、墨が縦横無尽に走り抜けている。
「私、先生の前衛書なんて初めて見ました」
それはもはや字ではない。
かと言って絵でもない。
真っ白い紙に、筆の動き、墨の滲みや
「ふふ、ちょっと刺激を受けてね、挑戦してみたくなったの。ちなみにタイトルは隠しているんだけど、何だと思う?」
「そうですねぇ、とんでもない太い線が、でもあんまり滲まず、力強く四方八方に勢いよく飛沫をあげて飛びぬけて……うん、大樹。しかもまだ若くてこれからもどんどん大きくなる大樹を想像します」
「なるほどね。渚君はどう?」
「え? 僕、ですか?」
いきなり話を振られて渚は戸惑ったものの、やがておずおずと口を開いた。
「もしかして……大谷翔平?」
その答えを聞いてハッとした結衣は、再び作品へと目をやった。
言われてみれば、確かにそうだ。この力強さ、この躍動感、間違いない。
二刀流で野球界を驚かせ続けている大谷翔平だ。
でも、それに渚が気付くとは。
そこまで鋭い観察眼を持っていたとは結衣は思ってもいなかった。
「正解。さすがはS大学の学生さんね。でも、もしかしてってレベルかぁ」
「先生、どういうことです?」
「さっき刺激を受けたって言ったでしょう? これを見てみて」
庵寿がスマホを取り出すと、操作して画面を見せてきた。
一瞬、渚が「あっ」と小さく声を出したものの、結衣は気付けなかった。
それぐらい画面の中の前衛書が完璧に大谷翔平を表現していて、結衣は一瞬にして心を惹きつけられてしまったのだ。
「凄いでしょ、これ。そんなに大きくない作品だし、稚拙なところもあるわ。でも、その迫力、ダイナミックな筆運びで、一発で大谷翔平って分かるでしょ」
「はい。凄いです。どなたが書かれたのですか?」
「それが分からないのよ。ただ去年のS県の県書展で見かけたのね」
ああ、だからか、と結衣は納得した。
言うまでもなく結衣たちの通うS大学はS県にある。
だから渚も去年の県展でこの作品を見ていたので、庵寿の前衛書が何を書いているのかが分かったのだろう。
それに……。
「分かりました。つまり先生はこの人と戦わせる為に私をS大学に薦めたんですね」
「さすがは結衣さん。察しがいいわね。まぁもちろん、あそこなら結衣さんの力を引き出してくれるのもあるけどね」
「了解しました。どこの誰かは知りませんが、ぼっこぼこにしてやりますよっ」
結衣が不敵な笑みを浮かべる。
その横で渚がぷるぷる震えているのを、結衣はこれもまた気が付かなかった。
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