第20話:私が一番上手いんですから
どうしても結衣のことを名前で呼べない。
それは渚自身も自覚している問題点だった。
恋人なんだから、下の名前で呼ぶのは当然なのに。
これまで付き合ってきた子には、普通に呼べたのに。
それなのに何故か結衣に対してはどうしても気後れしてしまう。
理由は分からない。
結衣が生粋のお嬢様だからか。
それとももう失敗は出来ないという思いが、躊躇させてしまうのか。
結衣に言われて治そうとするも、どうにもぎこちないままゴールデンウィークに突入して、東京へやって来た渚。
その渚の前に今、下の名前で呼ぶ・呼ばない問題とは全く別の、新たな難関が立ち塞がっていた。
「あ、あの僕、やっぱり外で待っているって言うのはダメ?」
渚が情けない声を上げて背後の結衣に振り返る。
「ダメです。言ったでしょう、この旅行が終わるまで私の命令には絶対服従だって。それに何のために正装してきたと思っているんですか」
「ううっ。そんな、聞いてないよ。神戸さ……ゆ、結衣の先生の個展を見に行くなんて」
アイドルのコンサートに行くのにどうして正装なんだろうと思っていたら、まさかの芸術鑑賞。
ただ、それだけなら別にここまで渚が困ることはない。
渚だってこれでも書研生だ。書道展を見に行った経験ぐらいある。
「ほら先輩、後がつかえてるんですから早く記帳してください」
が、わざわざ名前を記帳する個展に来たのは初めてだった。
「ほら先輩、早く早くっ!」
「ううっ、なんでそんなに嬉しそうなのさ?」
「だって先輩が書くところを初めて見ることが出来るんですもん」
「やめてよぉ。僕、めちゃくちゃ下手だって前から言っているでしょ」
情けなく眉をへの字に曲げる渚。
その表情を見て、結衣はますます楽しそうに微笑む。
何故なら結衣はまだ、渚がどんな字を書くのか見たことがなかったからだ。
市展に向けて書道室では常に誰かしらが作品制作に取り組んでいるこの時期、なのに渚はここまで筆を持とうとすらしていない。
だから結衣はどうしても見てみたかったのだ。
渚の書道の実力を。
それを見たくて、渚に内緒でこの個展鑑賞を今回の旅行内容に加えたのだった。
そんなワクワクを隠し切れない結衣の様子に、渚はどうにも逃げられそうにないと諦めて、仕方なく小筆を持った。
緊張で手が震える。
「そんなに緊張なさらず結構ですよ?」
受付の、二十代半ばあたりと思われる女性が渚をリラックスさせようと優しそうな笑みを浮かべた。
「そうですよ、先輩。リラックスリラックス」
その言葉を受けて結衣も渚の背中に身体を密着させて応援した。
一見すると和やかな光景だが、実のところはそうでもない。
個展の受付は基本的に先生のお弟子さんが務めるものだ。
しかし、同門にこんなに綺麗な女性がいるのを結衣は見たことがなかった。
どうやらまたしても渚の特殊能力が発動したらしい。
なので負けじと結衣は渚の背中におっぱいを押し付けて対抗している、というのが本当のところである。
「ううっ。笑わないでよ?」
結衣に念を押し、ふたりが見守る中、渚は震える筆先をままよと紙面に走らせる。
「……ぷっ」
途端に背後の結衣が溜まらず噴き出した。
「ちょ! 笑わないでって言ったのに!」
「だ、だってぇ、先輩……これ、本気ですか? 本気でこれ!?」
さすがに大声で笑い出すようなはしたないことはしないが、結衣は渚に密着しながら身体をぷるぷると震わせる。
受付の女性も笑ったりはしないものの、やや苦笑気味だ。
渚は顔を真っ赤にしながらも、みみずが這ったような筆跡で自分の名前を書き終えた。
「先輩、ホントに下手だったんですねぇ」
「ううっ。だからそう言ったじゃないか」
「だって比企先輩が『渚君はスゴイのを書くでぇ』って言うんですもん」
「曜子先輩は言うことが大袈裟なんだよ」
まぁ、違う意味で『すごかった』のだが。
「しかし、いくら大学から始めたとはいえ、書道研究室の学生がこれではマズいですね。先輩、帰ったら私が一から教えてあげますよ」
「う、うん。でも大学に入った頃に曜子先輩から教えてもらったんだけど、全然上手くならなくて……」
「比企先輩と一緒にしないでくださいよ」
受付を終えて、腕を組みながら会場へと入っていくふたり。
渚の耳元で結衣が囁く。
「渚先輩の扱いは私が一番上手いんですから」
「か、神戸さん!?」
渚がぎょっとして思わず禁じられている名字呼いをしてしまう。
が、結衣は気にすることなく、上機嫌のままだった。
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