第10話:騙しましたね?
それは二限目のことだった。
「あ、結衣ちゃんやん。おはようさん」
初コンパ→初体験→初朝帰りのコンボを決めた結衣は、それでも誰にも悟られることなく一限の国語概論の講義を終えると、そこで他の同級生たちと別れて書道室へと向かった。
この大学へはぶっちゃけひとり暮らしがしたくて書道の推薦で入った結衣だが、かと言って書道をおろそかにするつもりはない。
しっかりこちらでも成果を出し、卒業と同時に書道家になるつもりだ。
それで一年生にも関わらず専門講義を受けることにしたのだが。
「比企先輩、ホントにいた」
そこで書道研究室の四回生であり、子供の頃から結衣と同じ書道の先生に師事している先輩、
「へぇ、一年生やのにもうこの講義を受講するんやー?」
「はい。この大学には書道をやりにきたのですから」
「気合入ってるなぁ。偉い偉い」
「それよりこの講義、普通なら三年生で取りますよね? なんで四年生の比企先輩がいるんです?」
「あいたたたた。もう、そういうデリケートな質問はもっとオブラートに包んでやぁ、結衣ちゃん」
「つまり落ちこぼれた、と」
はぁ、と結衣はため息をついた。
曜子は結衣と同じく、師事する先生の推薦によって三年前にこの大学に進学した。
それだけ期待されていたわけである。
ところが一年もしないうちに書道界から姿を消した。
それまで大きな書道展では常に結衣と同じぐらいか、あるいはそれ以上の成績を収めていたにもかかわらずだ。
先生に訊いても「さぁ、色々と苦労してるんでしょう」と答えるだけで、結衣としてはとっくに大学を中退して書道を辞めたのだとばかり思っていた。
なのに渚が言っていたように、本当にいるじゃないか。
三年前よりもずっと大人の女性となり、なんだか気だるげな雰囲気を身に纏って微笑みながら。
「落ちこぼれてへんよぅ。ただ色々あって、単位が足りてないだけぇ」
「それを落ちこぼれと言うのですよ」
「やめてやぁ。ただでさえ卒業できるかどうか心配やのに……おや?」
頭を抱えていた曜子が不意に鼻をひくひくさせると、結衣に近づいてその身体を嗅ぎはじめた。
「ちょっと!? 一体なんですか?」
「あれれ、もしかして結衣ちゃん、渚君と寝たん?」
「えっ!?」
「だって結衣ちゃんの身体から渚君の匂いがするぅ」
「ウソッ!?」
そんな馬鹿なと由比は焦った。
身体はラブホテルでも、それにマンションに戻って大学へ行く前にもシャワーで丹念に洗ったはずだ。
渚の匂いなんて残っているはずがない。
実際、結衣が幾ら嗅いでみてもそれらしい匂いはなにひとつとして……。
「あー、やっぱりそうなんやぁ? 渚君が結衣ちゃんを駅まで送って帰ってこなかったって聞いたから怪しいなぁと思っとったんやけど、まさかホンマにそうとは」
「くっ。騙しましたね、比企先輩」
そう、匂いが残っているはずなどあろうことがない。
なのにハッタリをかまされて動揺した結衣は、自らのリアクションで墓穴を掘ってしまった。
「あー、
「うるさいですね。それに渚先輩に手を出されたわけではありません。私から手を出したんです」
「うわぁ、あの清純お嬢様だった結衣ちゃんからそんな話を聞くなんてぇ。お姉さんはショックやわぁ」
「いいじゃないですか。私だってもう子供じゃないんですから」
そりゃあ最後に曜子と顔を合わせた中学三年生の頃の結衣がこんなことを言ったら大変衝撃的なことであろう。
しかし今や結衣も18歳の大学生。
個人の恋愛事情にとやかく言われる筋合いはない。
「うーん、でも渚君かぁ。結衣ちゃん、入学早々大変やねぇ」
「なにがです? 渚先輩、いい人だと思いますけど。顔も可愛いし、性格だって優しいし」
えっちも上手かったですし、とはさすがに言わなかった。
「うん、ええ子やでぇ。とってもええ子。だけどええ子すぎるのも問題でねぇ」
「なんですか、歯切れが悪い言い方をして。言いたいことがあったら言ってくださいよ」
「んー、でもそれをうちの口から言うのはちょっとなぁ。まぁ、すぐ分かると思うし、何かあったら相談に乗るよぉ。うち、色々と先輩やからぁ」
ますます歯に物が詰まったような言い草に、結衣はさらに問いただす姿勢を強めようとしたが、そこで講義が始まってしまったので口を閉ざした。
一体、渚と付き合うことのどこが大変なのだろう?
もしかして一年の間に9人もの彼女と破局していることを言っているのだろうか?
だとしたら無用の心配だ。
結衣は自分がそう簡単に寝取られるような軽い女じゃないことを知っているし、なにより寝取られないように頑張る渚の姿は期待するところでもある。
だから結衣はそれ以上は深く考えず、意識を白と黒の世界に没頭させていった。
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