第7話


「深夜というのは結構きついですよ。こういっては何なのですが、1日10時間で月25日というのはどうもねえ。もう少しお若ければまだしもなんですが」

「そこを何とかお願いできないでしょうか」

 コンビニの店の奥で、50がらみの店長と津田は向かい合って話をしていた。店長の反応は思わしくなく、津田は少しあせった。

「ちょっと申し訳ないんですが、もう少し若い方にお願いしたいんですよ。だいたい、そんなにハードな勤務をやっていただくというわけにはいかないんですよ。皆さん、無理のないローテーション組んでやってますからねえ」

 津田は少しうつむき、もう一度、

「だめですか」

「申し訳ないんですが」

 津田は家に戻ると、もう、横になろうとはしなかった。誰もいない家の中で、座ろうともせずに、ただまっすぐタンスへ行き、引き出しを開け、3枚入っていた1万円札のうち2枚をとってポケットに入れると、そのまま家を出て、列車に飛び乗った。



 津田は最後の夕食を済ませた。窓辺に行ってすでに深い闇に包まれた外をうかがうと、眼下からせせらぎが立ち昇り、向こう岸に旅館や民宿の明かりがちらちら見えた。うなだれて、しばらく立ったままその淡い光を眺めていたが、

  香織へ

 膳に向かって便箋にそう書くと、今度はすらすらと続いた。

  香織へ

 お金がなかったから、新婚旅行を伊豆一周ですませてごめんなさい。

 青森に帰れと何度もいって本当にごめんなさい。けんかはいつもぼくが悪いのです。

 結婚したばかりの頃、山中湖に遊びに行ってホテルに泊まったね。楽しかったね。強羅の旅館もいい思い出です。

 1日3食、香織の作ってくれるご飯は本当においしかった。勤めている時、よくお弁当を作ってくれてありがとう。

 たまご焼き、本当においしかった。

 肉だんごも、おいしかった。

 ハンバーグ、おいしかった。

 野菜炒め、おいしかった。

 とりの唐揚げ、おいしかった。

 天ぷら、おいしかった。

 おにしめもおいしかった。

 まだまだたくさん、本当においしかった。

 心から、本当にありがとう。

 君という人と出会って、ぼくは本当に幸せな男だった。学歴も、金もない男に、本当にもったいない妻でした。

 もしももう一度仕事について、君と一緒に暮らすことが許されるなら、今度はめぐみを連れて、こんな温泉に3人で遊びに来たい。

 君の人生を台無しにしてしまって本当にごめんなさい。めぐみをよろしくお願いします。

 どうか僕を許してください。

                   正夫


  めぐみへ

 おとうさんを許してください。君たちが食いつなぐには、これしか方法がなかったのです。

 でも、おとうさんにとって、めぐみは本当に宝もの以上でした。めぐみが生まれてくれたおかげで、おとうさんは人生の喜びを知ることができました。だからこそ、勘違いしないでほしい。おとうさんは喜んで死んでいくのです。今まで、おとうさんはめぐみのために頑張ってきたのではありません。結局自分のために頑張ったのです。めぐみのために頑張るのが楽しかったから頑張ったのです。だから結局自分のためなんです。

 おとうさんが死んでいくのも、勝手だけど自分のためなんです。そうすることで、めぐみとおかあさんにはたくさんのお金が入る。これはおとうさんにとって、とても嬉しいことなのです。

 おとうさんのわがままを許してください。

 そしておかあさんを大切にして、つらいことも一緒に乗り越えて、仲良く暮らしてください。

 もしあの世というものがあったら、おとうさんはいつもそこから精一杯めぐみを応援しています。

               おとうさんより


 まんじりともしない1夜を過ごした。

 翌朝、津田は朝食にはほとんど手をつけずに、死体が発見された時のための免許証がポケットに入っているのを確認し、ポケットのボタンをしっかり閉めると、置いてあった宿泊者名簿に住所と名前を記入し、遺書の便箋を禅の上に置き、宿代を払って民宿を出た。

 津田はここに来た時駅から乗ってきたバスで、駅の方向に逆戻りするつもりだった。駅から来る途中、バスが海辺を20分くらい走ったので、そのあたりのどの海岸で降りてもいいな、と考えていた。沖へ向かって泳ぎ出し、50メートルか100メートルも泳げば、水泳が苦手で体力のない津田は、自分が沈んでしまうであろうことは予測できた。それが1番いい方法だと考えていた。

 停留所で待っていると、やがてバスがやってきた。バスの中は数人の乗客がまばらに座っているだけで、閑散としていた。津田はちょうど真ん中あたりの座席に腰をおろした。山あいの道を7、8分も下ると、バスは海岸線を走り出した。

 青い海原がきらきらと朝の光を反射して、空はどこまでも澄んでいる。遠くにくっきりと水平線が見渡せる。が、津田は重い、不快な、鉛のようなものを胃のあたりに感じるだけで、ほかには何の感覚もなかった。

 自分は本当にこのまま死ぬのだろうか。もう本当に、どうすることもならないのだろうか。悔いはないのだろうか。津田は、ふとそう自問したが、いや、この海岸のどこかでバスを降りて、沖へ向かって泳ぐ、人生でやり残したことはそれだけだ、と改めて自身にいい聞かせた。

 どこで降りるか。どの海岸で決行するか。津田はバスが停留所に停まるたびに、ここにするか、いや、次あたりで、と迷い続けた。岩場よりは砂浜の方がいい。いや、べつに岩場でもいいじゃないか。津田はバスの窓からここぞという海岸を探し続けた。

 バスは走る。揺れながら走った。バスに揺られていると、津田の中で何かがそれに合わせて揺れ、ふっと大きな動揺が起こった。このまま行けば駅に逆戻りできる。そう考えた時、津田はもう1度、と思った。もう1度、香織に会いたい。もう1度、めぐみをこの手に抱きたい。俺はもう1度、君たちのもとへ帰りたいのだ、心から。

 そうして視界がうるみ、津田の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。と、その時バスに乗ってきた老人が持っていた新聞に、ウクライナという文字が踊っていて、思いがけない考えが津田の脳裏をよぎった。戦争が始まって2ヶ月だ。毎日たくさんの人々が亡くなっていく。もちろんコロナでも。誰も望んではいないのに。なのに自分はまだ生かされている。まだ命があるのだ。

 そう、考えた。

 津田は、まだバスに揺られている。

                    了

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香織とめぐみへ レネ @asamurakamei

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