第11話





駅でタクシーを捕まえて校舎に向かうその時間すらもどかしかった。

だだっ広い校内を全力で走り抜け、数学準備室で採点作業をしていた木崎から音楽室の鍵を奪い取り、その足で渡り廊下で繋がっている特殊教室棟へと向かう。

四階の一番奥の部屋。

真下の第一音楽室からは吹奏楽部であろう金管楽器の音が漏れ聞こえているが、ここ第二音楽室はしん、と静まり返っていた。

普段はほとんど使用されていない教室らしく、部屋の奥には打楽器や譜面台などが大量に置かれ、倉庫状態だ。

誰も換気なんてしていないのだろう、埃っぽい空気。

けれど、その全てがどうでもよかった。

どんな環境だって構わない。こいつさえあれば。


埃をかぶったカバーをとり、丸めて足元に捨て置く。姿を現したグランドピアノは使い込まれた形跡もなく、新品同様だった。

しばらく使用者がいなかったのであろうその天板を上げ蓋を開く。

試しにグリッサンドで端から端まで音を鳴らしてみたが、さすがは学校ピアノ、調律はきちんとされているようだ。ペダルも問題ない。

指を下ろせば綺麗なCの和音が室内に響いた。



ふう、と小さく息を吐いて瞬きをひとつ。

指慣らしのスローテンポな曲から……なんて余裕は一切なかった。

ショパンの練習曲、作品10の第5番。

黒鍵の高い音が和音と合わさり空気をふるわせる。

ピアノ初心者を嘲笑うかのような難解な練習曲エチュードは、全速力で鍵盤を飛び跳ね駆け抜けていく疾走感のある曲だと思う。

けれど、いくら鍵盤に指を滑らせてもどうにもしっくりこなかった。

パズルのピースがハマらないようなもどかしさ。

脳裏にチラつくのはリンクで見たあの光景。


もっと、もっと駆け抜けるような衝撃を。これじゃ全く足りない。

テンポの早い曲を手当たり次第に弾いてみる。

ラ・カンパネラ、ハンガリー舞曲、冬の一楽章……ピアノ曲にこだわらず弾いてはみるものの、やっぱり違う。これじゃない。

緩急のある曲やもっと跳ねるような曲。華やかな曲。とにかく思いつく限りを弾いて、弾いて。

それでもピースはハマらない。

何十曲目かを弾き終えてから、いまだもやもやと霧の晴れないイライラをがんっ、とピアノにぶつけた。

不協和音が盛大に響く。

「くそっ、」

髪をかき乱し悪態をついたところで答えは出ない。

何が違う?どうすればいい。

あの光景を見て、俺はどうしたいっていうんだ。

目を閉じて、息を吐く。

脳裏にチラつく存在。周りを引き込む圧倒的な存在感。好奇の目を含め多くの視線の中で、それでもあいつは滑り、そこに立っていた。

何物にも流されず、凛として。


……ああ。名前だけじゃなくてそういう所も同じなのか。


ふう、と長い息を吐く。

もう一度鍵盤に視線を落とし、そっと指をおろした。


小さく跳ねる音。

軽やかに跳ねて、なめらかに滑る。

早足で、手を伸ばせば掴めそうな。でも掴めずにすぐ傍をすり抜けていく音。

飛び跳ねていた音はいつしか緩やかに穏やかに流れ、歌うように華やかに色をつけていく。

ゆっくりと流れるト長調の三拍子。

そこに少しずつ低音を足していく。

高らかに歌っていた音に混ざる短調は駆けるように速度を上げ、存在を増し、主旋律とぶつかり合う。

快速にアレグロ活発にビバーチェ急速にプレスト

音の波が押し寄せて、ぐちゃぐちゃに空気をかき乱して。


そして突然、ピタリと止まる。


時が止まったかのような静寂に呼吸すら忘れて。

そうして皆が息を飲む頃、ようやく聞こえてきた主旋律に安堵し、最後に聴くんだ。

凛、と残る音を。



最後の和音を響かせて、俺はゆっくりと鍵盤から手を離した。

先程までとは打って変わって気持ちが凪いでいる。

「Midori」そう名をつけた曲はカラーを題材にしたアルバムにそっと忍ばせた一曲だ。

それがどこかの誰かの目にとまって、数年前の花博に起用されたのを覚えている。

あいつの姿がチラつくこの曲は、しばらく弾くこともないかと思っていたのだが。俺はつくづく「みどり」に縁があるらしい。

苦笑いを噛み殺し、俺はピアノの蓋を閉じる。

気がつけば外は橙に染まっていて、どれだけ長い時間没頭していたのか思い知らされた。

晃を置いて帰ってきた事だし、そろそろ戻るかと立ち上がったのだが、


ふと感じた人の気配。


振り返って入口を見やれば、そこに居たのは予想外の人物だった。

「美鳥!?」

リンクであった時とは違い、彩華のジャージを羽織った美鳥は、音楽室の入口で呆然と立ち尽くしていた。

「どうした?」

問いかけてもなんの反応もない。

電気もつけずに弾きっぱなしだった室内は影を落とし始めていて、その表情を窺い知ることができない。

俺はピアノにカバーを掛けてから美鳥に歩み寄ったのだが、

「な、」

近づいてようやくはっきりと確認できた美鳥は、呆然と立ち尽くし声も出さずに泣いていた。

「み、美鳥。」

俺の声に、美鳥はびくりと身体を震わせる。

「ぁ、さ、くらい君……」

「一体どうした?」

「え?……あ、僕…」

どうやら自分でも気づいていなかったらしい。

頬を伝う雫を慌てて拭うが、その瞳からはポロポロととめどなく大粒のがこぼれ落ちてくる。

何がどうなってる?

自身も混乱しているらしい美鳥の顔を覗き込めば、がしっ、と腕を掴まれた。

「だ、って、……同じ名前だと思っていたけど、まさか、まさか本当に櫻井君が、し、sikiだったなんて!」

「な!?」


突然飛び出したとんでもない言葉に、今度は俺が言葉を失う番だった。



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