第9話




ファミレスから駅に戻った俺達はコインロッカーに荷物を押し込み、駅の裏にあるスケート場へと来ていた。

畔倉あぜくらアイスアリーナと書かれた年季の入った看板を見る限り、この辺りの商業施設が立ち並ぶ前からこの地域の人が利用している娯楽施設なんだろう。

駅よりも広いその建物の中には売店やレストランまで入っていて、割と盛況なようだった。

俺はとりあえず、靴を借りようという晃の提案を無視して受付で入場料だけを払って中に入ることにした。

生まれてこのかたスケートなんてやった事がないし、正直何が楽しいのかもわからない。やりたいなら一人で勝手に滑ってろと言えば、晃はむすっと頬を膨らませながらも後ろからついてくる。

氷の上をぐるぐる滑って何が楽しいんだか。こいつも、美鳥も。

貸靴のコーナーもロッカールームも素通りし、真っ直ぐリンクに向かう。

扉を開いた瞬間、入り込んできた冷気に一瞬鳥肌がたった。

「うわ、けっこう人いるね。」

土曜だからということもあるのだろうが、家族連れや恋人らしい人間でリンクはごった返している。

かなり広いしこれは美鳥を探し出すのに骨が折れそうだと思ったのだが、

「あ、」

探す必要はなかった。

リンクの端から探そうと視線をめぐらせる前に、俺の目に飛び込んでくる存在があった。昨日より高い位置で纏められた亜麻色。色白なほうだと思ってはいたが、白い氷上に立っているとそれがさらに際立って見える。

遠目からでもわかる。間違えるはずがない。

「いたいた、美鳥君だ。色、ほらあそこ。」

わかってる。

俺は晃にそう返すことすら出来なかった。

晃に視線を移すことも、声を出すことも、息をすることすら忘れて、俺の視線はただ一点に向けられる。

リンクのほぼ中央辺りに美鳥の姿はあった。美鳥は黒の半袖一枚という寒そうな格好をしていたが、そんなことが目を引いた理由じゃない。昨日は見られなかった、緊張感のある真剣な表情も理由にならない。

美鳥はリンクを後ろ向きで軽やかに滑っていたかと思うと次の瞬間―――跳んだのだ。

体が氷から離れ、クルクルと回転しながら宙を舞った。


「フィギュアスケート……」


さすがの俺でもテレビで見た事くらいはある。生まれてこの方滑ったことのない俺でも、目の前の光景がどれほど凄いことなのかくらいわかった。

俺の目の前で、また美鳥の体が宙に舞う。何回転したかなんて俺には分からなかったが、まるで重力を感じさせない軽やかなジャンプだった。

着地したと思ったら、今度は目で追えないような速さのスピンを始める。

……何がスケーターズワルツだ。作曲者が生きていれば俺は間違いなく一発殴ってる。

優雅に滑るイメージなんて今この瞬間に砕け散った。

美鳥が滑るその場所だけが別世界だった。


美鳥飛鳥みどりあすか。一昨年のジュニア世界大会の優勝者だって。」

「……は?世界大会って、」

とんでもない単語に思わず視線を隣に向ければ、晃は手すりに体を預け、ぼんやりと美鳥の滑りを眺めていた。

「昨年はいよいよシニアに上がると噂されてたけど、怪我で一年間全ての大会を欠場。そうして今年満を持してシニアに!って連日ニュースでやってたんだよ。……そんな人がある日突然転校してきた。」

「……なんで、」

「知らないよ。聞けるわけないじゃん。」

美鳥が滑ればリンクにいる人間は道をあけ、遠巻きにその姿を見つめる。

美鳥のいる場所だけ空気が違う。その存在感に圧倒される。惹き込まれる。

こんな所にいるべき人間じゃない事は、誰の目にも明らかだった。

木崎きざきちゃんに聞いてもさ、それは俺の口から言うべきじゃないって。」

いったい何があったっていうんだ。

何があればこんな事になる?

心臓に細い糸が絡みついてるみたいだ。胸を掻きむしりたくなるような衝動と息苦しさを感じて、俺は気がつけば拳を握りしめていた。

ああ、くそ。

どうしろっていうんだ。何なんだ、この感覚。

言葉にできない何かが押し寄せてくる。

得体の知れない感情に困惑しながら、目の前の光景を眺めることしかできない。

ただ真っ直ぐその存在に視線を奪われて、そして


振り返った美鳥と目が合った。


瞳をパチリと瞬かせた美鳥はピタリと動きを止める。

隣で晃がひらひらと手を振れば、美鳥もそれに応えながらこちらに向かって滑ってきた。

「二人共、来てたんだね。」

「美鳥君の練習を見学しに、ね。」

「僕?なんだか、恥ずかしいな。」

俯いて照れ隠しに髪をかきあげる美鳥は、先程までとまるで違う柔らかい空気を纏っていた。

「やっぱり生で見ると迫力あるよね。すっごく綺麗だった。ね、色。」

何なんだ。

言葉にできない、得体の知れないこの感情は。

「櫻井君?」

目の前で首を傾げるその人物が理解できない。何なんだ、何者なんだ。

なんで、なんで、

俺は咄嗟に美鳥の腕を掴んだ。

突然の事にびくりと美鳥の身体が跳ねる。

「さ、くらい君?」

「……なんで、なんでこんな所にいる?なんでここに来た!?」

「ちょ、色、」

晃に肩を揺さぶられ制止をかけられたが、俺はその手を離さなかった。

これは怒り近い感情なのかもしれない。

全てが理解できなくて、全てをその視線にぶつける。

「あ、えっと……」


美鳥は大きく瞳を見開いてから視線を左右にさまよわせ、困り顔で笑った。





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